一作ごとに題材やスタイルを変え、しかも作品を量産するマイケル・ウィンターボトムと厳格かつストイックにひとつのスタイルを探求し、人間を見つめるジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟。彼らはまったく異なるタイプの作家のように見えるが、根本的な視点はかなり近いところにある。
ウィンターボトムはかつて、劇映画デビュー作『バタフライ・キス』の孤独なヒロインについてこう語っていた。「サッチャーは、この世には社会などなく個人の集合でしかないという迷言を吐いた。その結果、彼女のように社会に紛れていた個人があぶりだされてきた」
彼は、社会の変化や現実を意識しているが、それを社会派的なリアリズムで提示しようとはしないし、誰もが同じ感情を抱くようなストーリーで描くことも拒む。彼の関心は、ある状況のなかで孤立した個人が何を求め、どう行動するかを浮き彫りにすることにある。彼の作品に孤児が頻繁に登場するのも決して偶然ではない。
ダルデンヌ兄弟はベルギー出身だが、彼らが育った労働者のコミュニティは、サッチャリズムによって打撃を受け、解体を余儀なくされたイギリス北部と同じ運命をたどった。彼らはかつてこう語っていた。
「確かに私たちが撮影した地域とイギリスのある地方とはかなり似ているところがあります。20世紀を通じて工業化が進み、それに並行して労働運動が生まれ、歴史が作られてきました。そしてどちらも伝統的な工業が崩壊して、工場が閉鎖され、生産拠点が移行し、労働運動が下火になった」
彼らもまたそんな社会の変化を強く意識しているが、歴史が崩壊した後に残された個人の現実を、社会派リアリズムやストーリーで描こうとはしない。苛酷な状況に投げ出された人間に肉迫し、葛藤とぎりぎりの選択を冷徹に浮き彫りにするのである。
そんな彼らの新作では、それぞれの監督の社会に対する視野の広がりがあると同時に、この共通する視点が際立ち、比較してみると非常に興味深い。2作品はどちらも実際に起こった事件がヒントになっている。
ウィンターボトムの『イン・ディス・ワールド』の場合は、2000年6月にベルギーからオランダを経てイギリスのドーバー港に到着したトラックのコンテナから、福建省出身の中国人58人の遺体と2人の生存者が発見された事件。ダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』の方は、1993年2月にリヴァプールで、2人の10歳の少年が、母親と買い物をしていた2歳児を連れ出し、惨殺した事件だ。というようにそれぞれの監督は、社会の現実を意識しているが、すでに書いたように映画では独自の世界が切り開かれていく。
『イン・ディス・ワールド』の主人公は、パキスタンの難民キャンプで育った15歳のアフガン人孤児ジャマール。彼は、従兄弟で20代のエナヤットとロンドンに旅立つことになる。息子の将来を案じたエナヤットの父親が、密入国業者に大金を出し、英語ができるジャマールもその旅に同行することになったのだ。
この映画に描かれるのは、パキスタンからイラン、トルコ、イタリア、フランスを経てイギリスに至る4000マイルの旅だ。登場人物は、実際に難民キャンプで育った少年たちが実名で出演し、小型のデジタルカメラが彼らを追いつづける。
ウィンターボトムが見つめるのは、まさに状況と個人の姿であり、それだけといっても過言ではない。移動のなかで主人公を取り巻く状況は目まぐるしく変化し、彼らは訳もわからず、戸惑いや苛立ちを覚えながらも状況に順応することを余儀なくされる。
人目につかないように業者に与えられた服に着替え、意味もわからない言葉を反復する。トラックに積まれたオレンジの箱と箱の間に身を潜め、貨物輸送用コンテナに40時間も閉じ込められ、長距離トラックの車体の底に張り付いてユーロトンネルを抜ける。
見知らぬ世界で孤立した彼らは、状況によって異国の人間になり、物流のルートに乗せられたモノになり、見えない存在にならなければならない。コンテナのなかでは、暗黒の圧迫感や酸欠によって、人々がもがき苦しみ、死んでいく。旅の途中には、ジャマールが村の子供たちとサッカーをするなど、自分に戻るひと時もあるが、それは自分でなくなる時間をさらに際立たせることになるのだ。
一方、ダルデンヌ兄弟の『息子のまなざし』では、職業訓練所で木工の指導をしているオリヴィエが主人公となる。彼は、フランシスという少年が入所してきた途端に落ち着きを失いだす。木工のクラスを希望した少年を拒み、他のクラスに回したにもかかわらず、彼の後を執拗に付け回す。
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