『イゴールの約束』のイゴールと父親、『ロゼッタ』のロゼッタと母親、『息子のまなざし』のオリヴィエと彼の息子の命を奪った少年。これまでのダルデンヌ兄弟の作品では、若者とその親の世代の関係が、ドラマのなかで重要な位置を占めていた。そんな世代への関心は、彼らのバックグラウンドと無縁ではない。兄弟は、労働者のコミュニティで成長し、その変化を目の当たりにし、そして今でもそこを舞台に映画を作り続けている。
「かつては労働運動が、社会全体とはいわないまでも、社会的な関係のストラクチャーを決定していたといってもいいでしょう。私たちは労働者階級の出身ではありませんが、当時は確かに労働運動が社会環境をすべてのレベルで決めていたと思います。ところが70年代にそれが消えてしまいました。経済危機が起こり、工場が閉鎖され、労働者階級がそれまで体現してきたような力を失ってしまったのです」
『イゴールの約束』と『ロゼッタ』では、コミュニティが崩壊し、親がロールモデルと成りえなくなった社会のなかで、孤立する若者がいかにして人間性を獲得していくのかが描き出された。『息子のまなざし』では、若い世代に伝えるべきものをまだ保持している大人の人間性や強度が試された。これに対して、新作の『ある子供』からは、若者と親の世代とは異なる関係が浮かび上がってくる。
「『ある子供』ではまず何よりも、年長者と若者という縦の関係ではなく、もっと違う関係を描きたいと思いました。そこで、同じレベルに立っているふたりの関係を描く、しかもラブストーリーにしたいというのが出発点になりました。最初に考えたのは、子供がいる若い女性が、父親になってくれる人を捜すというストーリーでした。しかし、父親の人物像を作り上げるうちに、彼の方が主人公になっていきました。父親が自分自身の子供を売る。そんなひどいことをしてしまった後で、ソニアの愛を取り戻せるのか、愛だけで変われるのか、父親になれるのか、他者に対して感情を持つ人間になれるのか、というような問いが前面に出てきたのです」
映画の導入部では、ブリュノとソニアの無邪気な戯れが、軽やかなカメラワークで生き生きと描き出される。彼らは同じような若者に見える。ところが、ブリュノが何の抵抗もなく子供を売ることで、実は彼らがまったく違う人間であることが明らかになる。
「その通りです、ソニアの場合は、ごく自然にすぐに母親になれる。実際に演技をした女優にとっても、生きた赤ちゃんを抱くことはとても重要なことでした。そして、子供を売られた後に、彼女の母親としての感情がより強くなっていきます。子供を売られたことを知った彼女は、気を失って倒れますが、それから彼女は別の重みを持ちます。ところが、ブリュノの場合は、子供の大切さがまったくわかっていない。彼は、子供を売っても、またもうひとり作ればいいといっている。しかも、子供を売ったために、もはやソニアに愛されなくなる可能性があるということすら考えていないのです」
そんなブリュノが変化する過程で印象深いのが、乳母車とスクーターのコントラストだ。ブリュノは子供を取り戻しはするものの、信頼を失い、空の乳母車とともに追い出される。彼はその乳母車を売り払う。金に困った彼は、スクーターを持っている年下の少年とひったくりを企み、結局、少年だけが補導されてしまう。その後で、彼がスクーターを押していく姿は、空の乳母車を押す姿にダブる。
「あの場面では、また売りにいくのではないかと想像することもできます。興味深いのは、彼が抵抗のあるものを押しているということです。スクーターはパンクしてますから、押すのは簡単ではない。ブリュノはこれまで身軽にあちこち動き回って、売ったり買ったりしてきた人間でした。そんな彼が初めて抵抗するものを押すことで、彼に少し重みができる、抵抗するものの重みを感じるのです」
『ある子供』とこれまでの作品との違いは、重さと軽さをめぐる描写にもはっきりと現れている。『ロゼッタ』や『息子のまなざし』では、重荷を背負ったロゼッタやオリヴィエが最後に解放される。これに対して『ある子供』では、軽やかな存在であったブリュノとソニアが、それぞれに異なる形で重さを獲得していく。そしてラストでふたりは、対等となったお互いの存在の重みを確認するのだ。
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