96年のカンヌ国際映画祭で喝采を浴びたベルギー映画『イゴールの約束』は、題材やスタイルなど一見地味に見えるが、人間の本性を見極めようとする奥深い葛藤のドラマが忘れがたい印象を残す素晴らしい作品である。
この映画を監督したリュックとジャン=ピエールのダルデンヌ兄弟は、もともとドキュメンタリーのフィールドで活動し、劇映画へと進出してきた。そんなふたりが3作目の劇映画となるこの『イゴールの約束』で描くのは、
違法外国人労働者とそのフィクサーの世界である。それだけに、この映画については、まず何よりもドキュメンタリー的な視点に注目が集まるのではないかと思う。
確かにこの映画では、ドキュメンタリー的な視点が重要な要素になっている。しかしながら見逃せないのは、それと同時に、考えようによってはそうした視点と相容れないような実に緻密な組み立てや演出がなされているということである。
たとえば、この映画には、ドラマのディテールに象徴的なイメージが散りばめられている。イゴールは映画の冒頭で、修理工場に立ち寄った夫人から財布を盗んで地中に埋め、やがて同じようにアミドゥの死体も埋めることになる。
アシタが飼っているニワトリは、アミドゥの死体が隠された場所の上にとまり、やがて彼女は、殺したニワトリの臓腑の様子で夫の消息を占おうとする。イゴールと父親は、同じ指輪を持ち、同じように煙草を吸い、同じように話す。
こうしたイメージが、ドキュメンタリー的な視点と密接に絡み合うことによって、主人公イゴールがアミドゥと交わした約束の奥深い意味を浮き彫りにしていくことになるのである。筆者が来日したダルデンヌ兄弟にインタビューしたとき、
彼らは劇映画に進出した大きな理由のひとつとして、「もっと現実に積極的に介入したくなった」と語っていた。これは言葉をかえれば、現実というものをもっと彼らのテーマに引き付けて掘り下げるということになると思うが、
この映画の緻密な組み立てには、そんなテーマがはっきりと反映されている。
つまり、これまで長い間、父親を唯一の手本として成長してきたイゴールが、ひとつの約束をきっかけとして変わることができるか、別の道を選ぶことができるかということだ。これは、
言葉にしてしまえばひどく単純な話になるが、それだけに監督たちの演出が際立つ。彼らは、演劇的な感情表現を徹底的に排除し、象徴的なイメージを通して逆に饒舌に語りかけてくるからだ。
監督たちは、イゴールと父親の絆の表現について、「ドアのノックのしかたのような細かな動作までそっくりにし、一瞬画面に手や足が映っただけではどちらのものであるのかわからないような演出を試みた」という発言をしている。
そうした緻密な演出は、実際に映画をご覧になればおわかりいただけるはずだが、この絆のイメージはドラマの展開のなかで暗黙のうちにさらに多くのことを語っている。そこまでひとつの価値観を植え付けられた人間が変わろうとするということは、
ほとんど自己というものを捨て去り、もうひとりの自己を見つけ出さなければならないということを意味している。
この父子に関する緻密な演出のなかでも、何でもないことのように見えながら監督たちの厳格な眼差しを感じさせるのが、強い意志を持って夫の帰りを待とうとするアシタに対する父子それぞれの駆け引きである。
まずイゴールは、ナビルを使ってアシタに金を渡そうとする。そして今度は父親が、ナビルを使ってアシタを襲わせようとする。 |