つまりこの映画の主人公レントンは、サッチャーがいくら未来に対する投資を呼びかけたとしても、何も選べる立場にはないわけだ。しかしこのモノローグにつづくドラマの内容はさらに皮肉である。サッチャリズムによってイギリスにはアメリカ的な消費社会が急速に拡大していくが、
その背後ではドラッグの市場も拡大する。イギリスで労働者のあいだにドラッグが広がるようになったのは80年代以後のことで、ヘロインに溺れていくこの映画の登場人物たちも、そういう意味では消費社会に組み込まれているのだ。
但し、レントンとその仲間全員がそろってドラッグまみれというわけではない。それがこの映画のひとつのポイントになっている。たとえば仲間のひとり、ベグビーは、アル中で喧嘩に明け暮れているが、ドラッグはやらない。つまり彼は旧来の労働者の生き方を堅持している。
それから、同じようにドラッグはやらず、スコットランドの自然に固執するトニーは、自然を通してスコットランド人のアイデンティティを維持しているといえる。
これに対してレントンは、ドラッグに溺れるうちに完全な根無し草となり、仲間を裏切ってドラッグをさばいて得た大金を一人占めし、姿をくらましてしまう。この展開からはサッチャリズムの一面が見えてくる。変貌を遂げたイギリスでは、労働者階級やスコットランド人といった意識で結びつくコミュニティは解体し、
金の有無だけがその人間を決定する。レントンは冒頭のモノローグとは裏腹に、自己中心のガキとなり、未来を選ぶのである。彼がもはや後戻りがきかない境界を越えるという意味では、この結末はイギリス社会の大きな分岐点を暗示していると見ることもできる。
■■80年代後半のニュー・ウェイブ■■
先ほど『トレインスポッティング』のことをブームの火付け役と書いたが、この数年のブームは正確には第二の波ということになる。なぜなら、イギリス映画はそれ以前の八〇年代後半の時期にニュー・ウェイブ≠ニして注目を浴び、秀作を次々と生みだしていたからだ。この時期の作品には、
現在進行形のサッチャリズムに対する痛烈なメッセージが際立ち、振り返ってみるといろいろ考えさせられるものがある。
イギリスにおける南北の格差については先述した通りだが、クリス・バーナードの『リヴァプールから手紙』(85年)は、ある男女の恋愛を通して疲弊する北部の都市の苦悩を浮き彫りにしている。主人公はリヴァプール近郊に住む失業中の娘で、彼女と親友の女の子のふたりは、
リヴァプールに一晩だけ停泊したソ連船のふたりの船員と知り合い、一夜をともにする。内気なヒロインは詩人のように繊細な青年と本当の恋に落ち、彼は結婚を誓ってソ連へと帰っていく。しかしそれ以後、青年には出国の機会も与えられず、手紙のやりとりも許されない。そこで彼女は何とブレジネフ書記長に手紙を送る。
すると書記長からはソ連への片道切符が送られてくる。
彼女の家族や政府は、ソ連に行けば自由が奪われるといって彼女を押し止めようとする。そこでこのドラマでは、彼女の選択をめぐって目の前にある北部都市の現実としての絶望とソ連の未知なる絶望が対比されることになる。さらに政府は、青年が結婚していることを証明する合成写真まで作って彼女を制止しようとする。
しかし彼女の決意は揺るがない。この映画はそんな彼女の決意を通して南北問題を痛烈に批判するのだ。
当時ニュー・ウェイブの代表作として日本でも話題になったスティーヴン・フリアーズの『マイ・ビューティフル・ランドレット』(85年)では、移民の立場を通してサッチャリズムが見えてくる。主人公は、失業保険の世話になり、アル中の父親とロンドンの安アパートに暮らしているパキスタン系の若者オマール。
彼は、羽振りのよい叔父から赤字のコイン・ランドリーの経営をまかされ、幼なじみの白人ジョニーと組んで店を軌道に乗せ、金儲けにのめり込む。
この映画の登場人物たちは、人種ではなくサッチャリズムによってその立場が規定されている。オマールの叔父は、自分をパキスタン人である前に実業家だと規定し、サッチャーを持ち上げる。一方、オマールの父親は、祖国では名のある社会主義者のジャーナリストだったが、ロンドンでは完全に周縁に押しやられ、
廃人同様の暮らしをしている。また、オマールとジョニーは同性愛の関係にあるが、オマールは、かつてジョニーが移民排斥のデモに加わったことがわだかまりとなり、自分が彼の雇い主となったことに優越感も感じる。
サッチャリズムが奨励する個人の自助努力の成果がこうした関係に反映されているのだ。そして、オマールの父親は、
息子が「パンツの洗濯屋」になってしまったことを嘆き、何とか大学に戻って欲しいと思う。大学で学べば、この国でいま誰が誰に何をしているかがわかるからだと彼は説明するのである。
■■フォークランド紛争とジェントリフィケーション■■
一方、このニュー・ウェイブのなかでその表現スタイルが異彩を放っているのが、デレク・ジャーマンとピーター・グリーナウェイの作品だ。彼らはもともと画家で、実験的な映画から劇映画へと進出してきたため、それぞれにユニークな映像言語が際立つのだが、そんな彼らの作品もまたサッチャリズムと無縁ではない。
ジャーマンの代表作『ラスト・オブ・イングランド』(87年)は、古いホーム・ムーヴィーやアトリエのジャーマン自身、ロンドン郊外やリヴァプールの廃虚、ペシミスティックな近未来のヴィジョンなど、多様な映像が自在に交錯する作品だが、そこからはイギリスの暗闇が浮かび上がってくる。
裸で殺伐とした廃虚を彷徨う若者の姿には、北部の孤独と苦悩が漂い、近未来のヴィジョンには、フォークランド紛争や武装した覆面の男たち、女王やサッチャーのイメージが象徴的に埋め込まれている。サッチャーは、フォークランド紛争の勝利によって国民の支持を集め、
政治的な地盤を固めることに成功したが、ここにはそうした政権に対する危機感が暗示されているのだ。
これに対してグリーナウェイが、サッチャリズムの社会を意識して作ったのが『コックと泥棒、その妻と愛人』(89年)である。この映画は、舞台がほとんど超高級フランス料理店のなかに限定されているが、この料理店はサッチャーが進めたロンドン再開発の産物と見て間違いない。そのなかでは、題名にある四人の人物たちが、姦通や報復、復讐を繰り広げる。
この映画でまず痛快なのは、店のオーナーが極悪非道な泥棒だということだ。サッチャリズムを支えるのは泥棒なのだ。さらにこの映画では、姦通、報復、復讐などのドラマがすべて食べるという行為に置き換えて描かれる。たとえば、妻を本好きの愛人に寝取られたことを知った泥棒は、本のページをその愛人の息の根が止まるまで口のなかに押し込みつづける。
舞台は超高級料理店であるから、食べるという行為は最初は非常に洗練された印象を与えるのだが、食べるという行為に置き換えられた残酷なドラマのなかで、最後には最も野蛮なカニバリズムに至る。サッチャリズムは人喰いに通じているのである。
■■イギリスとアメリカの密接な関係■■
さらに、ドラマのなかでイギリスとアメリカが結びつくような映画にも注目しておくべきだろう。サッチャー政権は、対外政策としてアメリカと経済的、政治的関係を強化し、自国の衰退産業を見放すかわりに、アメリカを中心とした外国資本の流入を促したからだ。 ===>2ページへ続く
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