本物のシドは、まさに衰退する70年代のイギリスを象徴する人物であり、そういう意味ではサッチャリズムとは遠い存在といえるのだが、80年代半ばに作られたこの映画には、アメリカに惹かれ、そこに飲み込まれていくイギリス人の若者としてのシドに、
サッチャリズムによってアメリカ的な消費社会へと変貌するイギリスが投影されているのである。
ちなみに以前、監督のアレックス・コックスにそのことを尋ねてみたとき、彼はこう語っていた。「当時のイギリス社会の変化についてはもちろん痛烈に意識していた。アメリカは同じ英語を話す国であるだけに、イギリスがあっという間にアメリカに取り込まれ、制覇されてしまうような、そんな危機感があったんだ」
■■個人主義的価値観の再検証という主題■■
こうした現在進行形のサッチャリズムを描いた80年代の映画と、それがひとたび根づいた現実から出発する90年代の映画を対比してみると、後者では、サッチャリズムをめぐる主題がある程度、明確に絞り込まれてきているように思える。それはサッチャリズムが社会に植え付けた徹底的な個人主義的価値観をそれぞれに見つめなおすということだ。
もちろん『トレインスポッティング』はそのひとつの回答になる。仲間を裏切ってでも、個人として未来を選択するということだ。同じダニー・ボイル監督の前作『シャロウ・グレイヴ』(95年)には、もっと極端なかたちで共通する回答が示されている。主人公は、医師、会計士、記者というようにそれぞれにキャリア=未来を選び、
洒落たアパートで共同生活を送る三人組の男女。
彼らは野心家で、他人を馬鹿にして優越感に浸るような人間だが、そんな彼らのもとに死体とともに大金が転がり込んできたとき、その化けの皮が剥がれる。大金をめぐって壮絶な殺し合いを始めるのである。これはサッチャリズムにどっぷりと漬かって育った若者たちの危うい現実をブラック・ユーモアで描いた作品といってよいだろう。
これに対して、自らの欲望ではなく、社会から見放されることによって孤立し、個人となる人間も当然存在する。マイケル・ウィンターボトムの『バタフライ・キス』(95年)に登場する謎めいたヒロイン、ユーニスはそのひとりだ。彼女はハイウェイ沿いのガソリンスタンドを転々としながら、まるで神の存在を確かめようとするかのように殺人を繰り返していく。
彼女の背景は映画ではほとんど語られないため、その解釈は観客に委ねられているが、ウィンターボトムは彼女についてこう語っていた。
「サッチャーがこの世には社会など無く、それは個人の集合に過ぎないという迷言をはき、もうあなた方の面倒はみないということで人々が見放された結果、社会に紛れて見えなかったユーニスのような孤立する人間の存在があぶりだされてくることになったんだ」
そんなユーニスは、同じように孤立した内気な娘ミリアムと出会い、彼女たちは残酷な愛の試練を経て、ふたりだけの世界のなかに救いを見出していく。
また、映画のタイプはまったく違うが、同じようにサッチャリズムのなかで孤立した個人同士が出会い、運命をともにしていくという意味で共通する視点を感じるのが、ポール・グリーングラスの『ヴァージン・フライト』(98年)だ。この映画のヒロインは、MND(運動ニューロン疾患)という難病で車椅子の生活を送る娘ジェーン。余命いくばくもない彼女は、
処女を捨てなかったことを後悔している。そんな彼女が偶然出会うのが、画家になる夢に行き詰まり、空を飛ぶことで自分が変われると信じる男リチャードだ。彼には銀行員の恋人がいて、彼はそんな金が象徴する世界から逃れようとするように銀行の屋根から舞い上がろうとし、無惨に失敗するのだ。
ジェーンの最後の願いは彼には受け入れられず、ふたりは、公共の機関や身障者専用クラブなどを訪ねて何とかしようとするが、たとえ車椅子の人間でも独力で希望を叶えなければならない現実を思い知らされ、ジゴロを買う決心をする。そしてリチャードは、その資金を調達するために恋人が働く因縁の銀行に押し入ろうとする。
彼らは金だけの社会から羽ばたこうとして、皮肉にも金に縛られていくのだが、最後にはそれぞれに自分のエゴを捨て、運命共同体となってして空に舞うことになるのである。
■■個人主義からコミュニティの再生へ■■
この二本の映画は、ひとたびサッチャリズムが導く孤立を受け入れ、それを乗り越えることによって新しい絆や共同体の意識が芽生える展開に新鮮な感動がある。しかしもう一方で、最近のイギリス映画でとても印象に残るのが、孤立した個人がサッチャリズムによって失われたかつてのコミュニティを再生しようとするドラマである。
ピーター・カッタネオの『フル・モンティ』(97年)は、意外な展開を通してそんな視点が浮かび上がってくる。映画の舞台は、北部の鉄鋼の町シェフィールド。工場が閉鎖に追い込まれ、失業者としてそれぞれに孤立する男たちは、子供の養育費や生活費を稼ぎだすために男のストリッパーになる決心をする。そこでダンスの特訓に励んではみるものの、
なかなか足並みが揃うものではない。ところが、労働者として彼らの体に染み付いた土壌が、意外なところで彼らを結束させる。ダンスだと思うと振り付けがまったくそろわないのに、サッカーのオフサイド・トラップだと思うと見事に一発で決まるというわけだ。
そして、彼らの初舞台となる映画のクライマックスでは、その会場に解体しかけていた彼らのコミュニティの人々が集まり、かつての活力を取り戻したかのような盛り上がりを見ることができるのである。この映画と共通する視点は、マーク・ハーマンの『ブラス!』(96年)にも見ることができる。こちらの主人公は、炭坑のブラスバンドのメンバーたちで、
彼らは炭坑が閉鎖に追い込まれようとも、ブラスバンドの音楽を通してコミュニティの絆を守り通そうとするのだ。
また逆に、コミュニティの再生が決して容易ではない現実を直視した映画として、シェーン・メドウズの『トゥエンティフォー・セブン』(97年)も印象に残る。この映画では、バブルに溺れて失業した中年男が、縄張り争いしかやることがない町の若者たちを集め、
ボクシングを通してコミュニティを再生しようとする。若者たちは輝きを取り戻すが、しかし、サッチャリズムによって虐げられ、卑屈になってしまった大人が彼らの夢を台無しにしてしまうのだ。
そして最後に、コミュニティをめぐるドラマとしてぜひとも注目したいのが、イギリス映画界で孤高の道を歩むケン・ローチの『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(98年)だ。主人公ジョーは、失業中の身ではあるが、監督としてグラスゴーで最低のサッカーチームを率い、コミュニティのまとめ役になっている。しかし、そこに影が忍び寄る。
チームの選手でもあるジョーの甥とその妻がドラッグの泥沼にはまり、彼らを救おうとするジョーはトラブルに深入りし、苦しい立場に追い込まれていくのだ。
この映画でまず注目したいのは、アル中とヤク中が象徴するものだ。アル中は昔から労働者の日常のなかに存在していたが、ドラッグが一般の労働者のあいだに広がるのは、先ほど触れたようにサッチャリズム以後のことだ。そしてこのドラッグは、コミュニティの絆を分断し、解体に追いやっていく。
そんな現実を背景として、この映画は、まさに「トレインスポッティング」に対するローチの返答になっている。二本の映画は同じ現実を対極の立場から描いているからだ。
「トレインスポッティング」では、レントンの仲間のベグビーが、旧来の労働者の価値観を象徴していたが、レントンはそんな仲間を裏切り、金という未来を選び、コミュニティは解体していく。一方「マイ・ネーム・イズ・ジョー」では、アル中を克服したジョーが旧来の労働者を象徴し、
ジョーの甥夫婦を泥沼に引き込もうとする町の顔役マガウアンがサッチャリズム以後の価値観を象徴している。彼は、ドラッグで儲け、すべてを金で割り切る男なのだ。ジョーは、甥夫婦を助け、コミュニティを守るために、仕方なくマガウアンのビジネスに引き込まれ、悲惨な結末を迎えることになる。
この映画の結末の悲しみはあまりにも深く、絶望的な気持ちにすらなるが、それでもローチは決して自分の信念を曲げようとしない。この映画のラストには、サッチャリズム以後の社会のなかでどんなにコミュニティの絆が分断されようとも、お互いをいたわりながら黙々と日々の営みをつづけてく人間がいるのだという確信を見ることができる。
サッチャーが鉄の女であるならば、ローチもまた鉄の意思を持った監督なのだ。
こうしてイギリス映画のふたつの波を代表する作品を振り返ってみると、サッチャリズムがいかに社会、そして映画に多大な影響を及ぼしているのかがよくわかる。サッチャリズムは社会を劇的に変え、その過酷な現実と人々の怒りこそが、イギリス映画の強度の源となっているのである。 |