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その悲劇とは第2次大戦の最中の42年に、5人兄弟のタビサが、33歳の弟ゴドフリを亡くしたことだ。彼は重要な密命をおびてベルリンに飛んだのだが、ドイツ軍に撃墜されたということだった。しかしタビサは、それが彼女の兄ローレンスが仕組んだことだと言い張り、証拠はなかったもののその主張を曲げようとはしなかった。
そして、それから40年後の82年に、偶然知り合ったマイケルに、なぜか家族の歴史をまとめる仕事を依頼したのだった。
一方、主人公のマイケルもまた奇妙なオブセッションに囚われている。61年、9歳の誕生日に彼は、両親に連れられてロンドンの映画館に行き、「What a Carve Up!」という映画を観る。それは、ブラックショー家という富豪の家長が亡くなり、遺言を確認するために集まった人々が次々と殺されていくゴシック風の作品だった。
ところが、映画の主人公が故人の看護婦に誘惑される場面で、お固い母親が席を立ち、無理やり家族を映画館から引っ張りだしてしまう。マイケルはその時以来、この場面に憑かれ、現実との接点を失い、現在でも内面ではこの映画の世界を生きつづけている。
というのがこの小説のプロローグであり、読者は、こんな設定がサッチャリズムや中流化の波とどのようにつながることになるのか首を傾げたくなることだろうが、本編に入ると著者の狙いが少しずつ見えてくる。本編では、現在のマイケルの物語と彼がこれまでまとめてきたタビサの甥や姪にあたる人々の人生が交互に綴られていくのだが、このウィンショー家の人々の物語は実に興味深い。
たとえば、姪のヒラリーは10代の頃に、家族と交際のあったBBCのプロデューサーに気に入られ、後にテレビ界に入る。彼女は、内心ではテレビを蔑んでいたにもかかわらず、プロデューサーの受け売りで「テレビの素晴らしいところは、階級の壁を越えて、国民をひとつにするところだ」と堂々と言ってのけて名前を売り、やがてコラムニストに転身し、オピニオン・リーダーとなる。
そして、80年代半ばに、サッチャー政権が炭鉱労組との死闘を繰り広げた時には、ストの目的も知らずに労組委員長スカーギルを徹底的にこき下ろし、組合をめぐって高等法院が政府のダメージとなるような判決を下した時には、芸能界のゴシップ紛いの話題をでっち上げ、読者の関心をそらしてしまうのである。
甥のヘンリーは、政界入りし、20年間も労働党に身を置いていたにもかかわらず、しだいにサッチャリズムに傾倒し、保守党を影でサポートする人物になっていく。そして、85年には、彼は、医療の現場で奮闘する女性医師との公開討論を行う。彼女は、政府が国家医療制度の予算を大幅に削減したために、追い詰められた人々の窮状を訴えるが、
彼は、そんな現場の声に耳を貸そうともせず、経済の好転を意味する難解な数字を延々と並べたて、押し通してしまうのである。
要するに、彼らは、70年代あたりから様々な分野でめきめきと頭角を現し、サッチャー政権下で権力を振るった人々なのだ。というよりも、著者のコーは、彼らの姿にサッチャー政権をそのまま投影しているのだ。
それは一族の他の連中にも当てはまる。もうひとりの姪のドロシーは、小さな農場を次々に買い占め、徹底的な合理化と抗生物質や農薬を使いまくることによって、卵や鶏肉、ベーコン、野菜のコストを削減し、市場を独占していく。甥のトマスは、いち早くビデオ・デッキの市場に目をつけたことで成功して、金融界の実力者となり、80年代半ばが生涯最良の時代とうそぶく。
サッチャーが、金融界のイメージを一新し、相場師を国民的英雄に変貌させたからだ。
しかも、こうした一族の姿は、マイケルの視点を通してさらに強調されることになる。彼は一族の物語を綴りながら、80年代半ばに死んだ父親のことを思いだす。労働者の父親は、ドロシーの会社のインスタント食品ばかり食べて、ぶくぶくに肥満し、心臓発作を起こした。そればかりか、彼が働いていた会社は、トマスのギャンブル的な野望によって潰され、
父親は年金もなく退職することになったのだ。そして、自然が残るのどかな田舎町だったマイケルの故郷は、父親が入院する頃には郊外住宅地に変貌し、両親はそこで空虚な生活を送っていた。そこで、彼は、ドロシーやトマスが父親を殺したといえるのではないかと自問するのである。要するに、この小説では、『Psychoville』で注目した80年代半ばに、ウィンショーの一族が権力を欲しいままにし、
マイケルの家庭が郊外のなかで崩壊していくことになるわけだ。
それでは、この小説には、そんなヴィジョンに対してどのような結末が待ち受けているのか。91年の初頭にマイケルは、ウィンショー家の家長だったタビサのもうひとりの弟の死にともなって、一族とともに遺言の確認に立ち会うことになる。そして、彼が9歳の時に囚われた映画とまったく同じことがそこで起こりだすのである。その背景は、
あまりにも緻密に組み立てられた物語なので、限られた字数ではとても説明できないが、この終盤では、42年の一族の悲劇にまでさかのぼって、すべての謎が説得力をもって見事に解きあかされていく。しかも、マイケルが直接手を下すわけではないが、『Psychoville』とはまったく異なるレベルで ”復讐” の物語にもなっているのだ。
この2冊の小説では、スタイルはまったく違うが、中流化の波のなかで主人公の父親や母親が犠牲になり、主人公はその復讐を遂げることになる。そんな物語からは、サッチャリズムのもうひとつの現実が、浮き彫りになるのである。