それから、下層階級や失業者が増大した。今日のイギリスでは(ちなみに本書が発表されたのは98年である)、年金生活者を除く5世帯に1世帯は誰も働いていないという。そこでグレイはつづける、「これは、他のヨーロッパ諸国では見られない規模の社会排斥を意味する。しかしアメリカでは長いことおなじみのことである」。
ここまでお読みになった方は、カッタネオ監督の前作『フル・モンティ』がいくら社会とかかわりを持つ作品だったとはいえ、刑務所を舞台にしたとても愉快なこの新作『ラッキー・ブレイク』について、なぜ冒頭からこんなことをくどくどと書いているのかと思われるかもしれない。
しかしグレイは、それを前提としてこういうことも指摘しているのだ。「刑罰政策においてすら、イギリスとアメリカとの間には際立った関連がある。イギリスの刑務所収容率はほかのどのEU諸国よりも高く(それでもアメリカよりはまだかなり低いが)、急速に上昇している。1992年から95年までの間にイギリスの刑務所人口は約3分の1増え5万人以上になった」。
要するにサッチャーの改革によって、もしかすると刑務所と無縁の人生を送ったかもしれない人間が、それだけ刑務所のお世話になっているということであり、また改革は80年代だけでなく90年代にも多大な影響を及ぼしているということである。
『ラッキー・ブレイク』でまず痛快だったのは、独房に放り込まれたジミーの前で、刑務所の所長が彼の犯罪歴を読み上げる場面だ。82年に車泥棒で保護観察処分、84年にホットドッグ屋を襲って6ヶ月の刑、88年には馬券売場、91年には宝石店に押し入る。そして最後に、映画の冒頭で描かれるように、大人になってからのさえない日々に終止符を打つために銀行を襲撃し、12年の実刑で服役することになった。つまりジミーの犯罪は、サッチャーの改革が実行力をともないだす頃から始まり、改革の進展に比例するようにエスカレートしていくのである。もちろん彼の幼なじみで相棒のルディにも同じことがいえる。
この映画は、改革によって社会からはじき出され、刑務所のお世話になることになった人間の物語なのだ。それはジミーと監房を分かち合うクリフなどにも当てはまる。彼はバンド仲間の指示で仕方なく信号無視をしただけだったが、仲間が車にクスリをたんまり積み込んでいた。『トレインスポッティング』にも描かれるように、アメリカ的な消費社会が広がれば裏でドラッグも流通するようになり、クリフのようにその巻き添えになる人間も出てくるのだ。
新しいイギリス映画には、改革で人間同士のつながりをズタズタにされた苦い記憶があるため、仲間意識と裏切りに特別なこだわりを持つ傾向があるが、この映画にもそれがよく出ている。その脚本を手がけるローナン・ベネットがアントニア・バードと組んだ97年の『フェイス』は、犯罪と仲間意識と裏切りと待つ女をめぐる渋く切ない映画だったが、ベネットはこの映画で同じモチーフから巧みに異なる味を引き出している。
銀行襲撃でジミーがルディをおいて逃げたことについて、ドラマは一見それほどこだわってないように見える。しかし最後まで観ると、実は最初から意識していて、きっちりとそれにけりをつけていることがわかる。筆者が素晴らしいと思うのは、なんといっても銀行と刑務所内のチャペルのコントラストだ。銀行でジミーとルディを隔てる防犯用シャッターは、仲間意識を排除する改革以後の冷たい社会を連想させる。使われなくなったチャペルもまた、信じるものなき時代を象徴しているが、結果的にジミーと仲間たちはミュージカルを通して再びそこに生命を吹き込み、チャペルは本来の役割を取り戻す。ジミーはそこでいろいろな意味で悔い改め、ルディに借りを返す。そしてもちろん、チャペルは男と女が愛の誓いをたてる場所となるのである。 |