その背景を考えてみると非常に興味深い映画や音楽などが、日本に入ってくると途端に表層だけのファッションと化してしまうというのは珍しいことではない。なかでも最近、特に筆者が気になったのは、
ダニー・ボイルの『シャロウ・グレイヴ』と『トレインスポッティング』、そして、ケン・ローチの『大地と自由』の扱いである。
本誌前号(「骰子/DICE」17号、96年11月)では、レヴューに『シャロウ・グレイヴ』があり、クロス・レヴューに他の二本が肩を並べているというように、これらの作品はほぼ同時期に公開されている。
が、本誌に限らず筆者が知る限り、どこからもイギリス社会をめぐる彼らの作品の深い結びつきが浮かび上がってきていない。
というよりもそれ以前に、それぞれの作品の背景すらまともに認識されてはいない。
『トレインスポッティング』がブームとなると、その特集はボイルや原作のウェルシュ、ブリット・ポップ一辺倒というわけだが、もし本当に背景をしっかり掘り下げていれば、同時期に公開される『大地と自由』は無視できなくなるはずだ。
両者はほとんど表裏の関係にあると言ってもいい。どちらの作品にも80年代にイギリスを変えたサッチャリズム以後の決定的な転換点が浮き彫りにされているからだ。70年代末に労働党から政権を奪ったサッチャーは、
当初はまだ基盤が不安定だったが、フォークランド紛争で強硬策をとることによって人心を掌握し、経済を圧迫する高福祉政策から自由主義市場経済への大転換を断行し、資産所有の民主主義を強行に押し進めた。
その結果、競争意識が高まることによって、経済は好転したが、極端な上昇志向や拝金主義が蔓延する一方で、弱者は切り捨てられることになった。
今は亡きデレク・ジャーマン監督がかつて来日したとき、彼はサッチャリズム以後のイギリス社会についてこんなふうに語っていた。
「ある人々が完全に周縁化されてしまっているということは、芸術家として無視できないことだ。イギリスは国家としてはお金を持っていないなどということは絶対にない。ただ、分かち合うこと忘れているのだ」
「『フェイス』はイギリスではきわめて保守的な雑誌で、最近の号にこの作品(『ラスト・オブ・イングランド』)の悪評が載っていたんだが、いまどき反戦なんかもう古いと書いてあるんだ。
いかにもサッチャーの子供たちが言いそうなことだ。みんなが厳しい生活を送っているのに現政権を疑わない人は非常に危険だと思う」
というようにデレクが危惧したイギリスの未来がいまここにあるというわけだ。
『シャロウ・グレイヴ』の主人公は、それぞれに医師、会計士、記者という未来を選び、洒落たアパートに一緒に暮らす男女3人組。彼らは4人目のルームメイトを募集しているが、その面接の様子からは、
彼らがクールで野心的で優越感にひたり、他人を見下し馬鹿にしていることがわかる。彼らはサッチャリズムにどっぷりつかって成長してきた若者たちなのだ。
ところが、そんな彼らのもとに、死体とともに彼らの生活レベルを遥かに上回る大金が転がり込んだことから、優越感は吹き飛び、クールな化けの皮は剥げ落ち、血みどろの死闘を繰り広げることになる。
これは、子供の頃から消費の欲望を植え付けられてはいるものの、実際の消費社会に対する免疫ができていない若者の未熟で危うい現実を巧みに描きだすブラック・ユーモアなのだ。
それでは『トレインスポッティング』はどうか。この映画の冒頭には、「人生を選べ、キャリアを選べ、家族を、テレビを、車を選べ。自己中心のガキになることほどみっともないことはない。未来を選べ。
だけど、それがいったい何なんだ」というような主人公レントンのモノローグがある。『シャロウ・グレイヴ』の3人組が人生やキャリアを選び、自己中心的なガキになっていたのに対して、
彼は少なくともサッチャリズムに対する反発は感じている。もっと厳密にいえば、スコットランドのエディンバラに暮らす労働者階級の彼は、切り捨てられた弱者に属し、未来を選びたくても選べないのだ。
但し、ドラッグが蔓延しつつあるという意味では、彼らは新しい消費社会に組み込まれつつある。
しかし、そのレントンと仲間たちは決して足並みがそろっているわけではなく、そのバラバラぶりが実は多くのことを語っている。特に興味深いのは、ドラッグをやる奴とやらない奴の違いである。
たとえば、ベグビーは、ドラッグを嫌い、パブで飲んだくれては喧嘩に明け暮れる。簡単にいえば彼は旧来の労働者の生き方を貫いている。ヘロインが労働者階級のあいだに広がったのは80年代以降のことで、
彼はその流れに逆らうことで労働者のアイデンティティを守ろうとしている。それから同じくドラッグをやらないトミー。彼の場合は、スコットランドの自然に固執し、スコットランド人というアイデンティティを守ろうとしている。
これに対して何度となくやめようとしながらドラッグにはまっていくレントンは、そうしたアイデンティティが崩壊していく。そして結局仲間を裏切り、自分の人生を選び取ることになる。
ボイルの二本の映画は、もはや後戻りがきかないイギリス社会を象徴している。どちらの主人公たちもドラッグに絡む金に動かされるわけだが、このドラッグ自体が80年代サッチャリズムの産物であり、
突き詰めれば彼らはアイデンティティを喪失して、サッチャリズムに飲み込まれていくのだ。
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