デレク・ジャーマン・インタビュー
Interview with Derek Jarman


1987年 渋谷
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(初出:「マリ・クレール」1987年12月号、若干の加筆)

 

 

サッチャーのイギリスに対する怒りと哀しみ

 

 つい1年ほど前まで、日本でデレク・ジャーマンというイギリスの映像作家の存在を知る人は、ほんの一握りのファンに限られていた。もちろん、彼の作品が今まで日本で一般公開されたことがなかったのだから、これはいたしかたのないことだ。

 ジャーマンは、イギリス本国でも、70年代後半に「セバスチャン」や「テンペスト」といった作品で異彩を放ちながら、この3年ほどのあいだに再浮上するまで、80年代に入ってから久しく不遇の時期を過ごしていた。

 ジャーマン再浮上の動きは、今年(1987年)になって日本にも波及した。まずこの春に、8ミリを基調とした85年の作品「エンジェリック・カンヴァセーション」が、つづいて8月には、86年に完成をみた7年越しの大作「カラヴァッジオ」が公開された。 さらに、<デレク・ジャーマン・フィルム・コレクション>として彼の8ミリ作品群の公開がつづき、「カラヴァッジオ」が予想を上回るロングランを記録するなど、日本でもやっとジャーマンが市民権を獲得した観がある。

 そして、第2回東京国際映画祭で、NTT19(トーク)劇場の招待により、この夏にロンドンで公開されたばかりの新作「ザ・ラスト・オブ・イングランド」を手土産に、ジャーマンの来日が実現した。

――映画を作る以前には絵画の勉強をされていたわけですが、その頃から映画に興味を持っていたのですか。

デレク・ジャーマン(以下DJ) いや。10代だった50年代には、人並みにフェリーニやパゾリーニの作品を観にいったりしたが、特に深入りすることはなかった。アート・スクールで勉強していたのは60年代だけど、 その頃は、周囲の影響があって、ケネス・アンガーとかアンディ・ウォーホルとか、画家や映画監督ではないアーティストが作ったフィルムをよく観ていた。

――あなたの初期の作品「イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・サン」に使用されているようなあの一種のホーム・ムーヴィーを撮るようになったきっかけは。




DJ 70年にケン・ラッセルの「肉体の悪魔」の美術を担当することになって、あの作品は大作だったから、わたしは1年近く絵を離れ、突然知らない世界に入り込んでしまったんだ。その頃に、8ミリで自分のアトリエを撮影したらとても美しくて気に入ってしまい、 それ以来、アトリエに出入りする仲間とかロンドンを撮るようになった。そして、週末にそれをみんなに見せたり、時には100人ぐらい集まるパーティで上映したりとか、とても楽しかったね。

――そのホーム・ムーヴィーが、今やあなたの作品に欠かすことのできない重要なメディアになっていると思うのですが。

DJ そう、コマーシャルなフィルムが撮りこぼしていく実体感のようなものを手にするうえで、最も有効なメディアだと思う。たとえば、「ザ・ラスト・オブ・イングランド」には、意図的にわたしの祖父母が撮ったホーム・ムーヴィーを使っているけれど、 今あれを見返してみると、同じ30分の長さだとしても、20年代末のイギリスの中流家庭について、劇場用の作品やいかなる形式のドキュメンタリーよりも多くのことを容易に、しかも、ダイレクトに視覚に訴えかける感覚として学びとることができる。 また、ホーム・ムーヴィーは、自分がどこに立っているのかを明確にする。他のフィルム・メイカーで、自分のホーム・ムーヴィーが撮れないという人に会うと、わたしは不思議な感じがしてしまう。彼はどうやって生きているんだろうと考え込んでしまうんだ(笑)。

――「ザ・ラスト・オブ・イングランド」では、そうしたホーム・ムーヴィーが、政治性を感じさせるドキュメンタリーやホモセクシャルなイメージと共存しているわけですが、これらはあなたのなかで密接に結びついているのですか。

DJ 必ずしもそうではない。たとえば、映像にホモセクシャルの視点を導入すると、今まで見えなかったものが見えてくる。わたしのまわりにはゲイの社会があって、60年代に初めてデイヴィッド・ホックニーたちがそれを明らかにしたということが、わたしにとってとても重要な体験になっている。

――それはある種のプロパガンダということ。

DJ いや、ちょっと違う。意識的に政治性を持つような戦略というのは、わたしたちの次の世代の考え方だ。60年代にホモセクシャルであることを公にするということは、物事の実体をさぐることの一端だったんだ。一種のうぬぼれかもしれないけど。とにかくあの頃は、 クリスマスのダンス・パーティでホックニーと男同士で踊ったということが、アート・スクールでさえスキャンダラスなことだったんだ。今からミルと60年代はかなり当たり前に見えるけど、あの時代に初めて試みられたライフ・スタイルが現代の若者に引き継がれているという意味で、 とてもアルカイックな価値がある。だからあの当時、もっとフィルムを撮っておけばよかったといつも思うんだが、気づくのが遅かったよ。直接に政治的な運動ではなかったけれども、もっと強い力を持っていたと思うんだ。

――「ザ・ラスト・オブ・イングランド」は、ペシミスティックな近未来の具体的なヴィジョンともとれますが、むしろ、あなたの内面にある哀しみを描いているのではないですか。

DJ それは、まさしくその通りだと思う。イギリス全体が、この20年あまりのあいだに大きく変わってしまった。ある人びとが完全に周縁化されてしまっているということは芸術家として無視できないことだ。

――あれは、深刻化する南北問題があなたの内面に作り上げた哀しい心象風景ですね。

DJ そう、イギリスは国家としては、お金を持っていないなどということはない。ただ、分かち合うことを忘れている。それを単なる偶然の不幸だなんてとても考えることはできない。ところが、サッチャーの政権下で育ってきた世代に、わたしはどうしてもギャップを感じてしまう。 たとえば「フェイス」は日本でも有名な雑誌のようだけど、イギリスではきわめて保守的な雑誌で、最近の号にこの新作の悪評が載っていて、今時、反戦なんかもう古くさいと書いてあるんだ。いかにもサッチャーの子供たちが言いそうなことだ。みんなが厳しい生活を送っているのに、現政権を疑わない人々は、非常に危険だと思う。

 ジャーマンについては、これまでに活字になった彼の発言を読んで、非常に過激な人物を想像していた。しかし、彼の生の言葉には過激さは微塵もなく、むしろそこには、聞いているほうが切なくなってくるような不思議な優しさが漂っていた。

 あるいはジャーマン自身が今まさに変貌しつつあるところなのかもしれない。一方では、今までになく自己のプライベートな部分を開示しながら、もう一方では、ロンドンやリヴァプール郊外の廃墟に政治性を色濃くにじませ、それがひとつにまとめあげられていく「ザ・ラスト・オブ・イングランド」。 そこには、同じポジティヴな姿勢とはいっても、もっと身近なところから語りかけてくるような彼の情念を感じとることができる。

 そして、彼の言葉の断片から浮かび上がる60年代への憧憬。ジャーマンにとって60年代は、何よりも無垢な時代、映画「ビギナーズ」が描こうとして描きそこねた眩く輝くエネルギッシュな時代なのだ。ジャーマンは、失われつつある60年代の時代精神によって、どうしようもなく硬直化しつつあるイギリスを揺り動かそうとしているのかもしれない。

 
 
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