ヴァージン・フライト
The Theory of Flight  The Theory of Flight
(1998) on IMDb


1998年 / イギリス / カラー / 103分 / ヴィスタ
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(初出:「ヴァージン・フライト」劇場用パンフレット、1999年、若干の加筆)

 

 

エゴを捨て運命共同体になる男女

 

 『トレインスポッティング』『フル・モンティ』を筆頭にイギリス映画の快進撃がつづいているが、この『ヴァージン・フライト』はそんなイギリス映画の充実ぶりを見せつけてくれる素晴らしい作品だ。映画を作る上で、 社会の現実を描くことと観客を惹きつける面白い作品を作ることを両立させるのはなかなか容易なことではないが、いまのイギリス映画が魅力的なのはそれを立派に両立させているところにある。

 それはこの『ヴァージン・フライト』にも当てはまる。この映画のふたりの主人公リチャードとジェーンは、 もしかするとかなり突飛なキャラクターのように思われるかもしれないが、これは決して面白い映画を作ろうとしてウケを狙った結果ではなく、イギリス社会の現実に照らしてみると非常にリアルに見えてくるのである。

 現代を描くイギリス映画は、80年代以降の社会の急激な変化の影響を抜きには語れない。80年代、政権の座についたマーガレット・サッチャーは、財政を圧迫する福祉優先の政策から自由主義経済へと大胆な方向転換を断行した。サッチャリズムと呼ばれるこの大改革は、 突き詰めれば国民ひとりひとりが国に頼るのではなく自分だけを頼りに生きていくことを意味していた。

 その結果、確かに競争意識が高まり、アメリカ的な消費社会が拡大し、経済は好転した。しかし、競争がエスカレートするあまり、極端な上昇志向や拝金主義がはびこるようになり、 富める者はもっと豊かになり、切り捨てられた弱者はもっと貧しくなり、貧富の差が拡大することになった。これは難しい話だと思われるかもしれないが、実はそんな現実がダニー・ボイルの『シャロウ・グレイヴ』や『トレインスポッティング』、あるいは『フル・モンティ』といった映画にも反映され、作品を面白くしているのだ。

 そして、『ヴァージン・フライト』のふたりの主人公のキャラクターもまた現実としっかり結びついているのである。

 この映画は、リチャードがひどく原始的な翼で空に舞い上がろうと試み、見事に失敗するところから始まるが、筆者はこのシーンを見ただけでこの映画が面白い作品になることを確信した。彼は画家志望だったがうまくいかず、空を飛ぶことで何かが変わると信じている。 それだけなら突飛なキャラクターと言われても仕方がないが、ドラマは暗黙のうちに彼が社会に何を感じ、どこから飛び立ちたいのかを物語っている。

 彼の恋人ジュリーは銀行員で、彼は彼女が勤めている銀行の立派な建物の高みから舞い上がろうとする。銀行はまさにお金の象徴だ。この映画では、 彼と彼女がなぜうまくいっていないのか特に説明がないが、筆者は非常によくわかる気がした。彼女は銀行員として時流に乗り、時代を肯定して生きているが、彼は納得できない。彼は、経済的には豊かに見えても中身が空虚な世界に疑問を感じている。だからこそ銀行から舞い上がろうとするのだ。


◆スタッフ◆

監督
ポール・グリーングラス
Paul Greengrass
脚本 リチャード・ホーキンス
Richard Hawkins
撮影 イヴァン・ストラスバーグ
Ivan Strasburg
編集 マーク・デイ
Mark Day

◆キャスト◆

リチャード
ケネス・ブラナー
Kenneth Branagh
ジェーン ヘレナ・ボナム・カーター
Helena Bonham Carter
アン ジェンマ・ジョーンズ
Gemma Jones
キャサリン スー・ジョーンズ・デイヴィス
Sue Jones Davis
ジュリー ホリー・エアー
Holly Aird
ジゴロ レイ・スティーヴンソン
Ray Stevenson

(配給:K2エンタテインメント)
 


 ではヒロインであるジェーンの場合はどうだろうか。リチャードに無理難題を押しつけてくる彼女も突飛なキャラクターのように見えるが、彼女の姿はリチャード以上にリアルだ。彼女はなぜ処女を捨てることにこだわるのか。その願望には実に見事に社会が反映されている。 彼女は車椅子の生活を余儀なくされているために、社会とあまり自由に接することができない。

 そんな彼女は密かにインターネットにアクセスし、社会を覗き見ている。インターネットには人々の欲望が投影され、セックスが氾濫している。もちろん彼女の願望の出発点には、 発病前に処女を捨てる機会を逸してしまったという事実があることは間違いないが、社会がさらに彼女の気持ちをロスト・ヴァージンへと駆り立てるのだ。

 そこで彼女は、希望を叶えてくれる相手を探すためにインターネットにメッセージを出し、リチャードに難題を押しつける。この処女を捨てるための彼女の奮闘からは、これまでにない新鮮な視点を通して社会が浮かび上がってくる。彼女とリチャードはまず公共の団体に相談を持ちかけるが、 受け入れられない。まさに頼れるものは自分しかないのだ。そして街を歩けば、実際に身障者の人たちが専用のクラブでそれぞれに楽しみを見出している。

 しかし彼女はさらに自分の趣味にあった男を探しつづけ、ついにはジゴロを金で買うというアイデアに行きつく。 このドラマはまさにサッチャリズム以降のイギリスを象徴している。欲望に満ちた社会が彼女を刺激し、自分しか頼れない社会のなかで彼女はその願望をお金の力で叶えようとする。社会と無縁に見えた彼女が、気づかぬうちにサッチャリズムが作りあげた消費社会に引き込まれていくのである。

 彼女の好奇心や積極性が彼女を消費活動に引き込むのは皮肉なことだが、もっと皮肉なのはリチャードの立場である。彼はジェーンがジゴロを買うお金を調達するために銀行強盗を決意する。お金がすべての社会から逃れるために銀行から舞い上がろうとした彼は、 ジェーンに協力するうちに彼女とともに再びお金がすべての社会のなかにずるずると引き込まれ、強盗となって銀行へと舞い戻らなければならないのだ。

 とまあここまで書けば、この映画がいわゆる難病ものといわれる枠組みを完全に突き抜けていて、しかも一見突飛に見えながら実は社会の現実を反映したリアルな作品であることがおわかりいただけるだろう。そしてそれゆえに映画の終盤に難病ものとは違う次元での深い感動があるのだ。

 リチャードとジェーンはこの皮肉な成り行きのなかで深みにはまりながらも、ぎりぎりのところでそれぞれに自分に目覚めていく。リチャードはなぜ自分が飛ぼうとしているのかその意味を理解する。もしジェーンがお金で希望を叶えてしまえば、彼が飛ぶことには意味がなくなる。飛ぶことは重要だが、 ひとりで飛ぼうとすることは、やはり自分だけのエゴを満たすことにしかならない。自分が飛ぶだけでは、彼がそこから舞い上がろうとしている社会と何ら違いがないのだ。

 一方、ジェーンもまたぎりぎりのところで、自分のエゴに気づく。いくら金を使って、かっこいい男と寝たとしてもそれはエゴを満たすことにしかならないのだ。

 先ほども書いたように、サッチャリズム以降のイギリスでは、加速する消費社会のなかで上昇志向や拝金主義がはびこり、人と人の絆が希薄になり、利己的な感情が広がった。この映画のふたりの主人公は、真剣で実直で不器用であるがゆえに気づかぬうちにそんな社会にずるずると引き込まれそうになるのだが、 ぎりぎりのところで自分に目覚め、社会に埋没することを免れる。

 彼らを救うのは、愛だと言うこともできるだろうが、筆者はあえて運命共同体になることだと言いたい。オンボロ飛行機で宙を舞う彼らはまさに運命共同体以外のなにものでもない。お金があって、自分の欲望を満たすことができれば本当に人は幸福になれるのか。この映画は突飛に見えてリアルなふたりの奮闘を通してその答を教えてくれるのだ。

 
 
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