リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ・インタビュー

2000年 渋谷
ロゼッタ/Rosetta――1999年/フランス=ベルギー/カラー/94分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:「キネマ旬報」2000年3月下旬号、若干の加筆)

 

 

記憶という支えが失われた時代の通過儀礼
――『ロゼッタ』(1999)

 

 ドキュメンタリーのフィールドから劇映画へと進出してきたリュックとジャン=ピエールのダルデンヌ兄弟は、前作『イゴールの約束』で劇映画における独自のスタイルを確立し、『ロゼッタ』でそれをさらに発展させた。 この2作品で彼らが描くのは、自動車修理工場で働くかたわら、違法外国人労働者のフィクサーという父親の仕事を手伝う少年であり、アル中の母親と暮らし、仕事を得るために苦闘する少女の姿である。

「2作品で主人公が少年、少女になったのは、私たちが移行≠フ問題に興味があるからだと思います。少年時代は移行、通過儀礼の時代です。また、おとぎ話的なストーリーを語りたいという気持ちもあります。おとぎ話のなかで子供はかなり辛い通過儀礼を経て大人へと移行していきます」(弟リュック)

 ■■社会性と映画的な創造性の拮抗■■

 『ロゼッタ』を観てまず驚かされるのは、前作よりもシンプルなドラマに見えながら、現実をとらえる社会性と映画としての創造性が見事なまでに拮抗し、そのスタイルが深化していることだ。彼らは、この社会性と創造性を常に意識して、映画を作っているのだろうか。

「意識的かどうかを明確にすることは難しい。私たちがやろうとしたのは、映画が目指す意図の一部として社会的なことを扱うことでした。つまり、現代の社会がどのように動いているかという部分を映画のなかに確保しようとしました。しかしだからといって、 登場人物を私たちの言説の代弁者に変えてしまうことはしたくないと思ったのです。私たちがまず興味を持ったのは、ロゼッタというひとりの女性であって、彼女を通じて社会的現実を示そうとは考えました。でも社会的現実が出発点にあるのではなく、人物がその社会的な言説を表す単なる道具になってはならないと考えていました。 ですから意識していたということに当てはまるかもしれませんが、脚本を書くときも、撮影をするときも、ひとつのテーゼ、あるいは言説を作ってそれを出発点として仕事を進めていこうとはまったく考えませんでした。私たちはあくまでもひとりの登場人物、その人の肉体を出発点としました」(弟)

 この兄弟のスタイルは、彼らの生い立ちや社会の変化と深い結びつきがあり、その足跡をたどることによって、いま彼らが少年少女を描くことの必然性がさらにはっきりと見えてくる。

「私たちは労働者が多く暮らす郊外の地域で育ちました。そこは始業や終業を告げる工場のサイレンによって日々のリズムが作られるような場所でした。学校の行き帰りの電車にはいつも労働者が乗ってましたし、工場がストや閉鎖になれば学校も休校になりました。私たちが生まれ育った環境自体が労働者のリズムで作られていたのです。 そんな環境で成長してきたので、社会的な現実に興味を持つきっかけとなる出来事というのはありません。自然なこととして自分たちの気持ちをそこに投げかけたということだと思います。『ロゼッタ』の場合も、私たちが育った地域で撮影をしています」(兄ジャン=ピエール)

 彼らはまず、自然なこととして社会性を持ったドキュメンタリーを作り始めるが、やがて劇映画へと進出する。そんな彼らの方向転換の背景には社会の大きな変化がある。

「ドキュメンタリーを作りはじめた時点で、その地域は不況におちいり、最後の大きな労働運動が起こりました。私たちはそのような労働運動の歴史を記憶として残し、後の世代に伝えていかなければならないと考えたのです。歴史とはいわないまでも、歴史の一部をドキュメンタリーで伝えていこうとしました。 しかし、いま私たちがフィクションの映画で描く人物は、もはやこの歴史に属していません。労働運動は下火になり、工場は閉鎖されてしまい、彼らは闘争とか連帯とは無縁の世代に属しています。私たちは彼らを彷徨っている人たちと呼んでいます」(兄)

 ジャン=ピエールの話を聞いていると、兄弟が属していたコミュニティは、イギリスでサッチャリズムによって解体を余儀なくされた北部の労働者のそれと似た運命をたどってきたように思えるのだが…。

「確かに私たちが撮影した地域とイギリスのある地方とはかなり似ているところがあります。20世紀を通じて工業化が進み、それに並行して労働運動が生まれ、歴史が作られてきました。そしてどちらも伝統的な工業が崩壊して、工場が閉鎖され、 生産拠点が移行し、労働運動が下火になった。とてもよく似ています」(兄)

 ■■殺すか自殺するか、二者択一からの解放■■

 そして、『イゴールの約束』や『ロゼッタ』の主人公である少年イゴールや少女ロゼッタというキャラクターは、労働者のコミュニティが解体した後、そこに残され、孤立した個人から発展してきているといえる。

「イゴールもロゼッタも自分の記憶を作り出そうとしていますが、過去の記憶に助けてもらうことができません。『イゴールの約束』の父親はもはや息子に伝えるべき遺産を持っていません。『ロゼッタ』の母親も自分が繰り返してきた失敗を除けば、 娘に伝えるべき遺産がないのです。だから過去の記憶が子供たちに、何をすべきで、何をすべきでないのかを教えてくれないのです。私たちが語っているのは、ある世代から別の世代に交代していくことの難しさです」(兄)

 しかし『イゴールの約束』と『ロゼッタ』では、過去の記憶を失い、迷える子供を見つめる兄弟の眼差しに大きな違いがある。それは映画のタイトルからも察することができる。『イゴールの約束』の原題はただ約束≠ナあり、 映画では少年がした約束をめぐる他者との関係(兄弟は前回のインタビューで契約≠ニいう表現を使っていた)が重要になる。これに対してヒロインの名前をタイトルにした『ロゼッタ』では、カメラは世界から精神的、肉体的に孤立する少女だけにひたすら肉薄していく。

◆プロフィール
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
ベルギーの工業地帯であり、労働闘争のメッカでもあったリェージュ郊外の街セランで、 リュックとジャン=ピエール・ダルデンヌ兄弟は育つ。兄ジャン=ピエールは高校卒業後、舞台演出家を目指して、ブリュッセルへ移り住む。弟リュックは毎週末、洗濯物を届けに兄の学校に通ううちに、 教師であった映画監督アルマン・ガッティと知り合う。
1974年、ジャン=ピエールは助監督としてアルマン・ガッティの作品に参加。彼から大いなる影響を受けたダルデンヌ兄弟は、原子力発電所で作業員として働き、貯めた資金でビデオカメラを購入する。 そしてビデオを使って現実を伝え、告発することができるのではないかと低所得者用の団地に3年間住み込んだ。日曜日ごとに団地で上映されていたこの'参加型のビデオ作品'によって二人は文部省に注目され、 初のドキュメンタリー作品を監督する。このドキュメンタリーは後にテレビ放映された。
 1975年、二人で家族的な制作会社'デリヴ'を設立。ワロニア地方における反ナチ運動、1960年のゼネスト、ポーランド移民などのドキュメンタリーを制作し、アルマン・ガッティ監督作品にスタッフとして参加するうちに、 ダルデンヌ兄弟は長編映画への興味を持つ。1986年、ユダヤ系ポーランド人の作家ルネ・カリスキーの戯曲『Falsch』に基づく初の長編劇映画を監督する。この作品はベルリン・カンヌといった映画祭には出品されたものの、興行的には成功をおさめられなかった。 2作目の『Je pense a vous』は、アラン・レネやフランソワ・トリュフォーの脚本家として知られるジャン・グリュオー、テオ・アンゲロプロス作品の撮影監督ヨルゴス・アルヴァニティス、女優のファビエンヌ・バーブという豪華な顔ぶれのなかで製作される。 しかし、数々の妥協を重ねたあげく、ダルデンヌ兄弟の全く納得できない作品として完成してしまう。結果、内向的なリュックには腫瘍が三つもできてしまい、陽気な楽天家ジャン=ピエールも寝食を忘れるほど悩んでしまうことになる。
ダルデンヌ兄弟は、自分たちが本当に撮りたいものを、撮りたいように撮ろうと決心し、議論を重ねて次回作のシナリオを二人で執筆する。そして誕生したのが、外国人労働者の売人である父親を持つ少年、イゴールを主人公とする「イゴールの約束」である。 ダルデンヌ兄弟の仕事のやり方は、二人ともが脚本家であり二人ともが演出家であり、リュックがプロデューサーを務めるというもの。現場に出ると一人がビデオモニターを見つめ、もう一人が役者たちのそばにつく。「ロゼッタ」にも見ることができる、 ダルデンヌ兄弟のスタイルがこの作品で完成する。「イゴールの約束」は数々の映画祭で絶賛され、様々な賞を受賞。その成功ゆえのプレッシャーを乗り越え、同じスタッフたちと時間をかけて創りあげられたのが、「ロゼッタ」である。

(『ロゼッタ』プレスより引用)
 
 
 
―ロゼッタ―

◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
Jean-Pierre&Luc Dardenne
製作 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、ミシェール&ローラン・ペタン
Jean-Pierre&Luc Dardenne, Michele&Laurent Petin
撮影監督 アラン・マルクーン
Alain Marcoen
編集 マリー=エレーヌ・ドゾ
Marie-Helene Dozo

◆キャスト◆

ロゼッタ   エミリー・デュケンヌ
Emilie Dequenne
リケ ファブリツィオ・ロンギオーヌ
Fabrizio Rongione
アンヌ・イェルノー
Anne Yernaux
社長 オリヴィエ・グルメ
Olivier Gourmet
(配給:ビターズ・エンド)


「われわれは最初からロゼッタを中心にした映画を作ろうと思いました。だから、そこに他人が関わるようなストーリーを持ち込まないようにしました。『イゴールの約束』では、イゴールから父親や他の人物に視点が移り、また戻ってくるような流れがありますが、 ロゼッタにはそれがありません。必ずロゼッタについて行き、彼女がどこに向かうのかを見届けようとするのです。

 しかし、ロゼッタは社会から排除され、彼女自身にも自分が何を目指し、どこに向かおうとしているのかわかりません。仕事を探しているのは確かですが、果たして仕事ができるかどうかはわからない。道の角を曲がったところに何が待っているのかもわからない。 ストーリーも同じように先が見えず、彼女とともに発展していくように作りました」(弟)

 ロゼッタの心と身体は、文字通りこの映画のなかで激しく揺れ動く。ある一瞬には、彼女が反発する母親と同じ道に踏み出しかける。貪欲に仕事を求める彼女は、ただひとりの友だちすら裏切る。しかし最後に、意外な感情の衝突のなかでささやかな救いを見出す。

「まず仕事が欲しいというロゼッタの欲求を真剣に考えるよう心がけました。仕事が得られないことは死ぬことにも等しいと彼女は思っています。この欲求をラディカルに突き詰めれば、仕事がある人間を殺して自分が仕事にありつくか、あるいは自分自身を殺す、 つまり自殺をするというふたつの結論しかないわけです。そこで、彼女のまわりに常にこのふたつの可能性を漂わせ、彼女がその双方にぎりぎりのところまでまで近づきながら、一線を越えないようにしました。

 ロゼッタは仕事を得るための戦いを通してかなり非人間的になっていきます。その非人間的な状態から人間的な部分を再発見すること、それが重要でした。彼女は自分が裏切った男の子のおかげで、最後のところでそうした殺すか自殺するかという二者択一から解放されます。 完全に閉ざされた存在だった彼女は、男の子に対して自分を開いていくような動作、視線を取り戻すことによって、開かれた存在となり、もうひとりのロゼッタになることができるのです。そのとき、彼女はもはやひとりではありません。」(弟)

 最後にロゼッタが救いを見出す瞬間。それは、ひとたび過去の記憶を失い、彷徨う彼女が、新たな記憶の糸口を開く瞬間といえるのではないだろうか。


(upload:2001/01/05)
 
 
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