ドキュメンタリーのフィールドから劇映画へと進出してきたリュックとジャン=ピエールのダルデンヌ兄弟は、前作『イゴールの約束』で劇映画における独自のスタイルを確立し、『ロゼッタ』でそれをさらに発展させた。
この2作品で彼らが描くのは、自動車修理工場で働くかたわら、違法外国人労働者のフィクサーという父親の仕事を手伝う少年であり、アル中の母親と暮らし、仕事を得るために苦闘する少女の姿である。
「2作品で主人公が少年、少女になったのは、私たちが移行≠フ問題に興味があるからだと思います。少年時代は移行、通過儀礼の時代です。また、おとぎ話的なストーリーを語りたいという気持ちもあります。おとぎ話のなかで子供はかなり辛い通過儀礼を経て大人へと移行していきます」(弟リュック)
■■社会性と映画的な創造性の拮抗■■
『ロゼッタ』を観てまず驚かされるのは、前作よりもシンプルなドラマに見えながら、現実をとらえる社会性と映画としての創造性が見事なまでに拮抗し、そのスタイルが深化していることだ。彼らは、この社会性と創造性を常に意識して、映画を作っているのだろうか。
「意識的かどうかを明確にすることは難しい。私たちがやろうとしたのは、映画が目指す意図の一部として社会的なことを扱うことでした。つまり、現代の社会がどのように動いているかという部分を映画のなかに確保しようとしました。しかしだからといって、
登場人物を私たちの言説の代弁者に変えてしまうことはしたくないと思ったのです。私たちがまず興味を持ったのは、ロゼッタというひとりの女性であって、彼女を通じて社会的現実を示そうとは考えました。でも社会的現実が出発点にあるのではなく、人物がその社会的な言説を表す単なる道具になってはならないと考えていました。
ですから意識していたということに当てはまるかもしれませんが、脚本を書くときも、撮影をするときも、ひとつのテーゼ、あるいは言説を作ってそれを出発点として仕事を進めていこうとはまったく考えませんでした。私たちはあくまでもひとりの登場人物、その人の肉体を出発点としました」(弟)
この兄弟のスタイルは、彼らの生い立ちや社会の変化と深い結びつきがあり、その足跡をたどることによって、いま彼らが少年少女を描くことの必然性がさらにはっきりと見えてくる。
「私たちは労働者が多く暮らす郊外の地域で育ちました。そこは始業や終業を告げる工場のサイレンによって日々のリズムが作られるような場所でした。学校の行き帰りの電車にはいつも労働者が乗ってましたし、工場がストや閉鎖になれば学校も休校になりました。私たちが生まれ育った環境自体が労働者のリズムで作られていたのです。
そんな環境で成長してきたので、社会的な現実に興味を持つきっかけとなる出来事というのはありません。自然なこととして自分たちの気持ちをそこに投げかけたということだと思います。『ロゼッタ』の場合も、私たちが育った地域で撮影をしています」(兄ジャン=ピエール)
彼らはまず、自然なこととして社会性を持ったドキュメンタリーを作り始めるが、やがて劇映画へと進出する。そんな彼らの方向転換の背景には社会の大きな変化がある。
「ドキュメンタリーを作りはじめた時点で、その地域は不況におちいり、最後の大きな労働運動が起こりました。私たちはそのような労働運動の歴史を記憶として残し、後の世代に伝えていかなければならないと考えたのです。歴史とはいわないまでも、歴史の一部をドキュメンタリーで伝えていこうとしました。
しかし、いま私たちがフィクションの映画で描く人物は、もはやこの歴史に属していません。労働運動は下火になり、工場は閉鎖されてしまい、彼らは闘争とか連帯とは無縁の世代に属しています。私たちは彼らを彷徨っている人たちと呼んでいます」(兄)
ジャン=ピエールの話を聞いていると、兄弟が属していたコミュニティは、イギリスでサッチャリズムによって解体を余儀なくされた北部の労働者のそれと似た運命をたどってきたように思えるのだが…。
「確かに私たちが撮影した地域とイギリスのある地方とはかなり似ているところがあります。20世紀を通じて工業化が進み、それに並行して労働運動が生まれ、歴史が作られてきました。そしてどちらも伝統的な工業が崩壊して、工場が閉鎖され、
生産拠点が移行し、労働運動が下火になった。とてもよく似ています」(兄)
■■殺すか自殺するか、二者択一からの解放■■
そして、『イゴールの約束』や『ロゼッタ』の主人公である少年イゴールや少女ロゼッタというキャラクターは、労働者のコミュニティが解体した後、そこに残され、孤立した個人から発展してきているといえる。
「イゴールもロゼッタも自分の記憶を作り出そうとしていますが、過去の記憶に助けてもらうことができません。『イゴールの約束』の父親はもはや息子に伝えるべき遺産を持っていません。『ロゼッタ』の母親も自分が繰り返してきた失敗を除けば、
娘に伝えるべき遺産がないのです。だから過去の記憶が子供たちに、何をすべきで、何をすべきでないのかを教えてくれないのです。私たちが語っているのは、ある世代から別の世代に交代していくことの難しさです」(兄)
しかし『イゴールの約束』と『ロゼッタ』では、過去の記憶を失い、迷える子供を見つめる兄弟の眼差しに大きな違いがある。それは映画のタイトルからも察することができる。『イゴールの約束』の原題はただ約束≠ナあり、
映画では少年がした約束をめぐる他者との関係(兄弟は前回のインタビューで契約≠ニいう表現を使っていた)が重要になる。これに対してヒロインの名前をタイトルにした『ロゼッタ』では、カメラは世界から精神的、肉体的に孤立する少女だけにひたすら肉薄していく。 |