『9 Songs』は、主人公マットが南極にやって来るところから始まる。彼は、雪と氷に閉ざされた世界のなかで、リサという娘のことを思い出す。彼女は21歳のアメリカ人で、これまでいろいろな国の男たちと付き合ってきたようだが、彼のなかに甦るのは、彼女の出身地とか言葉ではなく、肌の感触や匂いだ。ロンドンで、ロックのライヴで出会った彼らは、ライヴに通い、そしてセックスした。
つまりこの映画では、南極という孤立した状況を背景に、記憶のなかにある熱気に満ちたライヴとハードコアなセックスが描き出される。その構造は一見、単純に見えるが、映像からは現代を生きる個人の揺らぎがリアルに浮かび上がってくる。ウィンターボトムは当初、ミシェル・ウエルベックの小説『プラットフォーム』の映画化を考えたが、それが叶わず、この映画を作り上げたという。
フランス文学界の異端児ウエルベックは、グローバリゼーションの時代における個人とその欲望の在り方を辛辣な視点で抉り出し、挑発的なヴィジョンを切り開く作家だが、確かに彼とウィンターボトムの世界には通じ合うものがある。『プラットフォーム』の主人公は、「人間は唯一無二の存在であるとか、交換不可能な特異性を有しているとか主張するのは間違いだ」と考える。にもかかわらず彼は、ひとりの女とのセックスによって得られた幸福な記憶に囚われ、この物語を綴っていく。
そんな彼は、『CODE46』で不毛の外部世界に放り出され、ウィリアムとの記憶を生きるマリアを想起させる。
『9 Songs』のマットは、調査研究のために南極の深層から掘り出された氷を見つめる。そこには太古の記憶が封印されている。リサの記憶はそんな壮大な時間のなかに放り出される。そして、記憶のなかでリサは少しずつ彼から離れていく。
グローバルな世界に快楽を求める彼女にとって、彼はたくさんの男のひとりであり、彼がいてもバイブでひとりでいってしまうように、快楽は必ずしも共有されるものではない。マットは誕生日に彼女から南極の本を贈られるが、リサの記憶は、その本に書かれた氷山の運命のように、ゆっくりと解けて消え去るのだ。 |