この映画を観ながら筆者は、沖田監督が自主制作で作り上げた『このすばらしきせかい』のことを思い出していた。主人公は引きこもりの高校生・涼一。同級生に対してキレて怪我をさせてから不登校になっている。家族はみんな忙しく、毎朝、涼一のために千円を置いて出かけ、彼は家で一日中ゲームをしている。
ところが、そんな一家のところに、叔父さんがしばらく居候することになる。その叔父さんは、自殺をはかって入院し、住む家も金も無くしてしまったため、家族が面倒を見ることになったのだ。とはいえずっと家にいるのは涼一だけであり、彼はそんな成り行きで、不器用でマイペースな叔父さんに振り回されていく。
叔父さんは、家から持ち出した置物を金に変えて飲み食いしたり、涼一が顔を合わせたくない同級生を勝手に家に上げたり、泊りがけの旅に出る。涼一は、最初はそんな叔父さんに辟易するが、いつしか彼に付き合うことが楽しくなっている。そして、気づいてみれば、ふたりの立場が逆転している。
沖田監督は、日常的なエピソードを淡々と積み重ねながら、主人公の微妙な心の動きや変化を実に巧みに描き出していく。『南極料理人』では、そういうセンスにさらに磨きがかけられている。
西村は、望んで南極にやってきたわけではない。それを望んでいた同僚が、運悪く交通事故に遭い、その代わりに南極行きを命じられたのだ。妻と幼い子供たちがいる西村は、仕方なくやってきた。しかも、調理担当の人間は、食事や食生活に関して他の隊員たちに気を配るものだが、それが伝わらないことが多々ある。この映画はそのズレを描き出していく。
西村は当然、隊員たちが飽きないようにメニューを工夫する。ところが彼らのなかには、ラーメンだけ食べてれば幸せというような人物がいて、夜中にキッチンで勝手にラーメンを作ってこそこそ食べている。西村は顔には出さないが、もちろんいい気はしない。だからラーメンのストックが尽きたときに、有り余っているカニをその隊員に嬉しそうに差し出す。
さらに、隊員たちが熱いうちに料理を食べられるように準備をしても、彼らは好き勝手に話し込んでいる。高価な伊勢えびがあったので刺身にしようと思っても、多数決でエビフライにしなければならない。
西村はまさに隊員たちに振り回されていく。だが、『このすばらしきせかい』と同じように、いつしかそこに絆が生まれ、料理や家族に対する思いが変化していくのだ。 |