マイケル・ウィンターボトムは非常に多作な監督であり、かつその作品はバラエティに富んでいる。しかし、題材や表現スタイルがどのように変わろうとも、彼が見つめつづけるのは孤立した人間の姿である。彼の映画に孤児やそれに類する人物が頻繁に登場するのも決して偶然ではない。
彼の劇映画デビュー作『バタフライ・キス』には、ユーニスという孤独なヒロインが登場する。彼女はハイウェイ沿いを彷徨い、神の存在を確かめようとするように殺人を繰り返す。以前筆者がインタビューしたとき、監督はこのヒロインについてこう語っていた。
「彼女のように孤立した人間は、イギリス社会に存在しながら、これまでは見えなかった。しかしサッチャー政権によって社会が大きな変貌を遂げた。サッチャーはこの世には社会などなく個人の集合でしかないという迷言を吐いた。その結果、彼女のように社会に紛れていた個人があぶりだされてきた。
この映画は殺人鬼やレズビアン、ロード・ムーヴィーなど様々な観点から語られたが、(イギリス的な)社会派リアリズムとだけは言われなかった。そのことにとても満足している」
この発言は彼の魅力をよく物語っている。文芸作品(『日陰のふたり』)からボスニア紛争(『ウェルカム・トゥ・サラエボ』)まで、幅広い題材を多様なスタイルで描く彼の映画は、確かに社会派リアリズムには見えないが、それでも社会を見事にとらえている。彼の関心は常に、ある状況のなかで孤立した人間が何を求め、どう行動するかにあり、
それを掘り下げれば自ずと社会的な現実も浮き彫りになるという確信があるのだ。しかも彼は、その確信を強要することなく、解釈を観客に委ねる。
言葉を変えれば、彼は、観客が同じ感情を共有するような明確な物語の流れを排除する。登場人物を物語の束縛から解放し、解釈を観客に委ね、映画と個々の観客のあいだに親密な関係を築きあげようとするのだ。
そして、だからこそ自らの意思で『サイダーハウス・ルール』の監督を降りたということもできる。彼は原作者であるアーヴィング自身が書いた脚本を読んで、「原作を越えられない」と判断したが、その気持ちはよくわかる気がする。アーヴィングの魅力は、
現代という時代に古典的な物語の力を甦らせるところにあり、脚本でも人物は物語のうねりのなかに存在している。しかしウィンターボトムにすれば、その物語を排除しない限り、原作を越えることはできないのだ。
現代のロンドンを舞台にした新作『ひかりのまち』には、そんなウィンターボトムの映画的感性が遺憾なく発揮されている。『バタフライ・キス』にはサッチャリズムによる社会の変化が反映されていたが、『ひかりのまち』は、その後の社会と個人の関係を描きだす作品といえる。
この映画でロンドンを華やかに彩る光は、豊かになった社会を象徴している。しかし豊かさのなかで、人々は孤立しつつある。生き方の選択肢は広がったものの、それぞれが理想を追ううちに自分だけの世界にはまり込んでいる。切り捨てられた弱者の次に見えてくるのは、一見満ち足りた家族のなかで孤立する個人の姿なのだ。
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