マイケル・ウィンターボトム監督の新作『ウェルカム・トゥ・サラエボ』は、戦火のサラエボで報道することよりもひとりの子供の命を救うことを選んだイギリス人ジャーナリスト、マイケル・ニコルソンの実話をもとにした作品である。
しかしウィンターボトムが描くのは、感動が約束された単なるヒューマンドラマではない。これは、何が起ころうとも報道に徹してきた主人公マイケルの信念が、ボスニア紛争の特殊な状況のなかでどのように崩壊し、孤立し、思いもよらない行動をとることになるかを鋭く掘り下げる映画なのだ。
セルビア人勢力に包囲されたボスニアでは市民が無差別に砲撃を受けているが、世界の目と現実には大きなギャップが生まれている。サラエボを訪れたあるスポークスマンは、世界にはここよりも危険な場所が少なくとも13ヶ所は存在するとコメントする。
サラエボの場合、戦場はこの都市空間に限定されているため、英米混成のジャーナリストたちはすぐに現場に駆けつけ、生々しい映像を送ることができる。だが、世界の目は、民族対立というベールを通した流血に鈍感になっている。
そこで、アメリカ人の人気リポーターのフリンは、まだ危険な状況にある現場に自ら飛び込み、犠牲者を運ぶといったドラマチックな物語を作って、世界の関心をそこに向けさせようとする。この映画には、そんな戦場の現実と世界とのギャップを埋めるために作られた物語=映像が交錯する。さらにウィンターボトムは、本物の生々しい記録映像とそれを再現するドラマを緻密に繋ぎあわせ、現実が危うくなるような混沌とした空間を作り上げる。
では、そんな状況のなかで、マイケルはどのような姿勢でジャーナリストとしての氏名を果たそうとするのか。彼は、パンを求める行列に対する虐殺行為、その阿鼻叫喚の現場を冷静に記録することをカメラマンに指示する。だが、彼が送ったニュースは、イギリスでヨーク公の離婚が公になったためにトップから外されてしまう。
つまり、マイケルはそこにある現実をありのままに伝えようとするが、そうすればするほど世界の現実から遠ざかり、彼の存在の意味すら否定されていく。そして、孤立した彼が、自分を見失うかのようにある境界を越えるとき、われわれがメディアを通して知るサラエボの光景は確実に変化していく。
この映画では、ウィンターボトムが求める映画とサラエボにおける報道をめぐるドラマが奇妙にダブっていく。ウィンターボトムは、『バタフライ・キス』や元々テレビ映画として製作された『GO NOW』という出発点から、物語の流れに頼るのではなく、人物と状況を浮き彫りにするようなスタイルを貫いてきた。
以前、筆者がウィンターボトムにインタビューしたとき、彼はそのことについて以下のように語っていた。
「私は一般的な意味での物語というものに観客を引き込むような作り方はしたくない。観客が自分の考えや感情を自由に選択する余地を残しておきたい。それがある種の距離感を感じさせることになるかもしれないが、決めつけを極力排除し観客に委ねたいんだ」 |