マイティ・ハート/愛と絆
A Mighty Heart


2007年/アメリカ/カラー/108分/シネマスコープ/ドルビーデジタルDTS・SDDS
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(初出:「Cut」2007年11月号、映画の境界線75より抜粋)

 

 

せめぎ合うふたつのアイデンティティ

 

 9・11同時多発テロが起こり、米英軍がアフガンに侵攻した翌年の2002年1月、アフガンの隣国パキスタンで取材をしていた「ウォールストリート・ジャーナル」の記者ダニエル・パールが、イスラム過激派によって誘拐され、後に殺害された。

 マイケル・ウィンターボトムの新作『マイティ・ハート/愛と絆』の原作は、ダニエルの妻でジャーナリストのマリアンヌ・パールが、事件と捜査活動を詳細に綴った同名ノンフィクション。この本に感銘を受けたブラッド・ピットが、映画化権を獲得し、監督にウィンターボトムを起用した。映画はウィンターボトム自身の企画ではないが、そこには紛れもなく彼の世界がある。

 物語は、ダニエルが誘拐されるところから始まる。カラチにやって来た夫婦は、ダニエルの同僚の女性記者アスラの家にやっかいになり、仕事をしていたが、ダニエルが取材に出たまま行方不明になるのだ。妊娠5ヶ月のマリアンヌは、多方面に協力を求め、アスラの家は捜査本部のような空間に変貌する。そこには、米領事館付き地域安全保障担当官やテロ対策組織CIDのリーダー、FBI捜査官、地元の記者などが慌ただしく出入りし、事件に関わる人物や情報が錯綜していく。

 ウィンターボトムは、ドキュメンタリー・タッチでそんな状況を浮き彫りにしていく。しかし、緊迫感を生み出しているのは、一刻を争う誘拐事件の捜査という題材やそれを表現するスタイルだけではない。ウィンターボトムの『グアンタナモ、僕達が見た真実』とこの映画には、異なるふたつのアイデンティティの激しいせめぎ合いがある。そのひとつは、個人ではなく、国家や政治のアイデンティティだ。冷戦が終わり、国家や政治のアイデンティティの基盤がイデオロギーから文化へとシフトし、新たな緊張関係が生まれた。2本の映画の主人公たちは、そんな緊張関係を背景とする事件に巻き込まれ、境界に立たされる。


◆スタッフ◆
 
監督   マイケル・ウィンターボトム
Michael Winterbottom
製作 ブラッド・ピット、デデ・ガードナー、アンドリュー・イートン
Brad Pitt, Dede Gardner, Andrew Eaton
原作 マリアンヌ・パール
Mariane Pearl
脚本 ジョン・オーロフ
John Orloff
撮影 マルセル・ザイスキンド
Marcel Zyskind
編集 ピーター・クリステリス
Peter Christelis
音楽 ハリー・エスコット、モリー・ナイマン
Harry Escott, Molly Nyman
 
◆キャスト◆
 
マリアンヌ・パール   アンジェリーナ・ジョリー
Angelina Jolie
ダニエル・パール ダン・ファターマン
Dan Futterman
アスラ・ノマニ アーチー・パンジャビ
Archie Panjabi
キャプテン イルファン・カーン
Irrfan Khan
ランダル・ベネット ウィル・パットン
Will Patton
ジョン・バッシー デニス・オヘア
Denis O’Hare
ドース・アリアニ アドナン・シディキ
Adnan Siddiqui
スティーヴ・レヴァイン ゲイリー・ウィルメス
Gary Wilmes
-
(配給:UIP )
 

 『グアンタナモ、僕達が見た真実』では、結婚式のために祖国に帰ったパキスタン系イギリス人の若者たちが、米英軍のアフガン侵攻に巻き込まれ、テロリストとしてグアンタナモ米軍基地に収容される。『マイティ・ハート』でも、主人公たちの文化的な背景が鍵を握る。ダニエルはユダヤ人で、マリアンヌは、オランダ人の父親とキューバ人の母親の間に生まれ、フランスで育った。アスラは、インドで生まれ、パキスタンで仕事をしている。

 そんな背景を持つ彼らの存在は、誘拐事件によって歪められていく。アスラは、インドとパキスタンが対立関係にあるために、インド生まれというだけであらぬ疑いをかけられる。ダニエルは、ユダヤ人であることを知られないように注意を払ってきたが、どこかから情報がもれ、モサドのスパイであるかのように扱われる。国家や政治のアイデンティティに引きずり込まれ、そして殺害されるのだ。

 さらにこの映画では、ふたつのアイデンティティのせめぎ合いが、まったく異なる形で強調されている。それは、夫を亡くしたマリアンヌの叫びと子供を出産する彼女の叫びが、重なるように描かれていることだ。

 原作のなかで、マリアンヌは、西欧人に敵意を持つイスラム教徒の女性たちから話を聞いたときの体験について、こう書いている。「誰も私の出身や宗教について聞かなかったが、自分たちが混血の夫婦であることの利点をあらためてありがたく思った。血の混じった夫婦を悪く言える人はいない。混血については、個人であってもカップルであっても、その人の何かを知っていると言い切ることは誰にもできない。それは、混血の人間が、一般にいう国境に縛られないだけではなく、国境自体を意味のないものと感じているからだ。新しいものを創り出す自由を持っているからだ

 喪失の悲痛な叫びが出産時の叫びに変わることは、死と誕生という違いだけではなく、マリアンヌが国家や政治のアイデンティティの呪縛から解放されていくことも意味している。

《参照/引用文献》
『マイティ・ハート』マリアンヌ・パール●
高濱賛訳(潮出版社、2005年)

(upload:2009/06/01)
 
 
《関連リンク》
『ひかりのまち』 レビュー ■
マイケル・ウィンターボトム・インタビュー 『いつまでも二人で』(99) ■
『グアンタナモ、僕達が見た真実』 レビュー ■

 
 
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