イギリス映画界の新鋭マイケル・ウィンターボトムは、作品ごとに異なる題材を選び、新たなアプローチを試みているように見える。来年(1998)春公開予定の劇映画デビュー作『バタフライ・キス』は、殺人という罪を繰り返すことで神の存在を確認しようとするかのようなユーニスと、自分の世界に閉じこもるミリアムというふたりの娘たちが救いを見出すまでの愛の軌跡を追うロード・ムーヴィだ。
もともとテレビ映画として製作されたこの『GO NOW』では、ごく普通の男女が難病と闘い葛藤する姿が描かれる。そして、先ごろ公開されたばかりの劇映画2作目となる『日陰のふたり』は、文豪トマス・ハーディの小説の映画化であり、因習が支配する19世紀のイギリスで、運命に翻弄されながら愛を貫こうとする男女の苦悩が描かれるといった具合なのだ。
とはいうものの、筆者などは実際にどの作品にも引き込まれているのだから、共通点がないというわけではない。ウィンターボトムは、試練にさらされることによって浮き彫りになるような愛のかたちを映像に刻み込んでいる。異なる題材がそんな共通する独自の世界へと集約されていくのは、登場人物をとらえる彼の視点や感性と無関係ではない。
たとえば、『バタフライ・キス』には、自分の世界に閉じこもるミリアムが、殺人を繰り返すばかりか、愛情を試そうとするように彼女を振り回すユーニスをどこまでも受け入れていこうとする試練がある。ウィンターボトムは独自の感性でこの試練を表現している。
この映画には、ユーニスが殺人を繰り返すにもかかわらず、住人たちの騒ぎや警察の捜査といったものは一切描かれない。だからといって、完全に現実を離れ、内面に生起するものを象徴的に描くというところまで飛躍してしまうわけでもない。つまり彼は、主人公たちがストーリーの流れや先入観に縛られるような演出をできる限り排除し、観客とのあいだにより自由な関係を構築しようとするのだ。
これだけではわかりにくいかもしれないが、同じことが『日陰のふたり』にも言える。この映画については、まずインターネットで見かけた「ワシントン・ポスト」の批判的な論評に少し触れておきたい。それは要約すると以下のようなことになる。原作の断片的なエピソードを繋いだだけで物語としての流れが失われている。ヒロインは当時の因習に反抗する新しい女性であるはずなのに、映画ではそんな存在感が希薄である。そしてあとはイギリスの荒涼とした風景ばかりが印象に残る。
この論評が興味深いのは、もちろんウィンターボトムの魅力を逆説的に物語っているからだ。彼は、ヒロインをフェミニストのようなイメージで縛ることを拒み、観客それぞれの自由な解釈をうながす。また、彼の映画では風景強い印象を残すが、それはストーリーの流れや先入観を生むようなイメージを排除した結果として、主人公と彼らを取り巻く世界がありのままにとらえられ、より際立つからなのだ。 |