ホモセクシュアリティとカトリックの信仰
――アントニア・バードの『司祭』とパトリシア・ロゼマの『月の瞳』をめぐって



司祭 / Priest―――――――――― 1994年/イギリス/カラー/109分/ビスタ
月の瞳 / When Night Is Falling―― 1995年/カナダ/カラー/94分/ビスタ
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(初出「骰子/DICE」No.14、1996年5月)

 

 

 パトリシア・ロゼマ監督のカナダ映画『月の瞳』とアントニア・バード監督のイギリス映画『司祭』は、作品のスタイルやムードはまったく違うが、テーマに共通するところがあり比較してみると興味深い。

 『月の瞳』の主人公カミールは、ミッション系の大学で神話学を教える講師で、同じ大学に勤めるマーチンと婚約している。ふたりは敬虔なクリスチャンであり、彼らの上司は、いっそう信仰を深めていくためにも早く結婚することを強く勧めている。そんな時、カミールは、 サーカス一座の一員である娘ペトラに偶然出会い、その自由奔放な生き方にひきつけられ、肉体的にも愛し合うようになり、宗教の教義に縛られた保守的な世界と自由で官能的な世界の狭間で次第に追い詰められていくことになる。

 『司祭』の主人公は、リヴァプールのカトリック教会区に着任したばかりの若い司祭グレッグ。彼は、信仰に厚く理想に燃えているが、もう一方で他言もできない秘密を抱え込んでいる。実は彼はゲイで、欲望が抑えられなくなると僧衣から革ジャンに着替え、 夜の街に彷徨いだし、バーで男を物色し欲望に身をまかせる。しかし、あるトラブルからその秘密が衆人の知るところとなり、彼は、教会権力の圧力や信徒の偏見のなかで苦悩し、追い詰められていく。

 というように、この二本の映画は、キリスト教の宗教的な世界とホモセクシュアリティの深い溝を描いている。但し、こんなふうに主題だけを抜きだすと、いかにもハードなメッセージを前面に押しだした社会派映画のようにも思われそうだが、どちらもそれぞれに個性的で、かなり柔軟な感性で主題を扱っているところがまず印象的である。

 『月の瞳』は、主人公カミールの愛犬が死んでしまうところから話が始まる。彼女は、その犬の死を受け入れることができず、死骸を冷蔵庫にしまいこんでしまう。要するに、頭には教義が詰まってはいるが、犬の死を受け入れるための自分の宗教観というものがまだまったく出来上がっていないのだ。

 そんな彼女は、コインランドリーで偶然ペトラと出会い、彼女の衣服を持ちかえってしまう。カミールには婚約者と上司に面談する約束があり、仕方なくペトラの洋服を着てみる。そして、最初はその大胆なデザインにどぎまぎするのだが、厳格な上司から結婚の心得を聞かされるうちに、奇妙な解放感を感じだす。 そこで今度はそんな洋服の持ち主に関心を持ち、ペトラに惹かれていくことになる。

 この映画では、ペトラの幻想的なパフォーマンスや大空を舞うハンググライダー体験、そして、カミールとペトラのエロティックなセックス・シーンなどが非常に印象に残るはずだが、それは、いま書いたようなささやかなエピソードを通して、カミールが自分の肌で感じとれる部分から少しずつあらためて世界を受け入れていくような視点が生きているためである。

 これに比べると『司祭』の場合は、全米のカトリック教会がボイコット運動を展開したり、ローマ法王が抗議声明を発表したというだけあって、極めてシリアスな作品のような印象を与えるが、筆者には皮肉やユーモアが冴えを見せる映画のように思える。

 たとえば、一方で現実ではなくあくまで教義に基づく理想を前面に押しだし、他方で秘密の欲望に駆られる司祭グレッグの存在は、『月の瞳』のカミールと同じように頭と身体のバランスを失っている。映画は、そんな司祭を現実のなかに放りだす。カトリックでは司祭の結婚は禁じられているが、彼の先輩の司祭は、 家政婦ということでカモフラージュして女と同棲していることがわかる。

 さらにグレッグは、告解で高校生の娘から父親に辱められたことを告白され、その父親からは近親相姦が人間の本性であるかのような告白をされ、告解の内容を他言できない宗規ゆえに自己の無力さに苛まれる。いうなれば、彼もまた自分の肌で現実に曝されていくことになるわけだ。

 グレッグは、そうしたトラブルから秘密が暴露されることになり、人里離れた教区の頑迷な司祭に預けられるのだが、そこにユーモラスな場面がある。食事の前にこの頑迷な司祭がグレッグにラテン語で説教を始める。その場の空気はピンと張り詰めている。そこに家政婦の老女が食事を運んできたとき、 その老女のエプロンには"MEAT IS MURDER"というメッセージがでかでかと書かれているのがわかる。


―司祭―

 Priest
(1994) on IMDb


◆スタッフ◆

監督
アントニア・バード
Antonia Bird
脚本 ジミー・マクガヴァン
Jimmy McGovern
製作 ジョージ・フェイバー/ジョセフィーヌ・ワード
George Faber/Josephine Ward
製作総指揮 マーク・シヴァス
Mark Shivas
撮影 フレッド・タンメス
Fred Tammes
編集 スーザン・スパイヴィー
Susan Spivey
音楽 アンディ・ロバーツ
Andy Roberts

◆キャスト◆

グレッグ・ピルキントン
ライナス・ローチ
Linus Roache
マシュー・トーマス トム・ウィルキンソン
Tom Wilkinson
マリア・ケリガン キャシー・タイソン
Cathy Tyson
グラハム ロバート・カーライル
Robert Carlyle
エレイトン ジェイムズ・エリス
James Ellis
リサ・アンズワース クリスティ・トレマルコ
Christine Tremarco
(配給:セテラ)


―月の瞳―

 When Night Is Falling
(1995) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本
パトリシア・ロゼマ
Patricia Rozema
製作 バーバラ・トランター
Barbara Tranter
撮影 ダグラス・コッチ
Douglas Koch
編集 スーザン・シップトン
Susan Shipton
音楽 レスリー・バーバー
Lesley Barber

◆キャスト◆

カミール
パスカル・ビュシエール
Pascale Bussieres
ペトラ レイチェル・クロフォード
Rachael Crawford
マーティン ヘンリー・ツェルニー
Henry Czerny
ティモシー ドン・マッケラー
Don McKellar
 

 


 監督のバードがロック好きであることを考えると、これはおそらくザ・スミスのアルバムのタイトルを暗示しているのだろう。そんなふうに老女の存在はさり気なく際立っていて、孤立するグレッグの守護天使のようにも思える。 やがて勇気を取り戻して元の教区に帰る決意を固めたグレッグが旅立つとき、彼女は、教会の二階の窓からその後ろ姿を見つめながら初めてにんまりとする。この老女は完璧な脇役だが、その笑みは実に小気味よく、この監督のセンスを感じさせるのだ。

 というように、二本の映画はそれぞれに主題に対する切り口に監督の個性がよく出ている。なかでも特に筆者が興味をそそられたのは、宗教とホモセクシュアリティの微妙な関係である。一般的に見れば、映画『司祭』がカトリック教会から猛反発を受けたという話からも明らかなように、 このふたつは相容れない世界である。特にカトリックでは、総本山であるローマ・カトリック教会が、生殖以外の目的で行う諸々の性行為と同じようにホモセクシュアリティは罪であるという判断をくだしているからだ。

 しかしながら、もっと異なる精神的なレベルでは、ふたつの世界に密接な結びつきがないわけではない。たとえば、アメリカにおけるゲイの現状をゲイの立場からリポートしたフランク・ブラウニングの『THE CULTURE OF DESIRE 』には、この結びつきをめぐって興味深い話が出てくる。 それは、ラジオ番組のリポーターをしている著者が、有名なゲイの作家アーミステッド・モーピンにインタビューしたときのこと。モーピンは、名前も知らずセックスすらしたことがない男たちでも、抱きしめて少し身体を動かすだけでどんな人間であるかがわかってしまう、 それは神をすぐそばに感じるような宗教的な体験だと語りだす。ところがその後に、このコミュニケーションの間、彼はいつも跪いているという発言があり、物議を醸すことになる。

 その意味するところは、もうひとつのエピソードから察せられるだろう。その数カ月後、著者は、カトリックとゲイの深い結びつきを明言するもうひとりの人物に出会う。カトリックの環境で成長したこの男性は、初めてペニスをくわえたときの体験は聖体拝領そのものだったという。 彼によれば、カトリックの聖体拝領とは、プロテスタントのような象徴的な絆ではなく、文字通り神の肉を食べ、神と一体になることであり、ペニスを食べるということは、肉体の衝動から魂を切り離し、自我を捨て去って一体となることを発見するある種の深遠な方法だというのだ。 これはお固いカトリック信者や司祭が耳にしたら血管が切れそうな話だが、著者は、その後の取材でセックスと神の密接な結びつきが見えてきたと書いている。

 そして、これほど極端ではないものの、たとえば、ゲイのための生活ガイドであるジョン・プレストンの『THE BIG GAY BOOK』などをひもといてみると、やはりゲイのセックスは精神的な体験だと書かれているし、実際、カトリックも含めてゲイやレズのための教会の連絡先が数多くリストアップされているのだ。

 これは、ゲイやレズのセックスが、場合によっては精神世界を広げ、信仰に結びつくことを物語っている。そういう視点を踏まえてこの二本の映画を観てみると、対立の構造とは異なる次元での信仰という主題が浮かび上がる。どちらの映画も、形骸化してしまったキリスト教の教義が取り払われたとき、 セクシュアリティの向こう側に信仰が見えてくるからだ。

 『月の瞳』の主人公カミールは、最終的には、教義から抜けだすことのできない婚約者を捨て、ペトラを選ぶが、それは相容れない世界の二者択一を迫られて結論を出すことにはなっていない。この映画のラストには、死んだはずの犬の復活と旅立ちが暗示される。これには様々な解釈が可能だが、 カミールが本当の絆を発見し、その体験を通して自分の宗教観を培い、死というものを受け入れることができたと見ることもできるのだ。

 一方、『司祭』の場合は、カトリックの世界であるだけにゲイの絆に対していっそう意味深いものを感じる。グレッグがバーで出会ったグラハムという男とセックスを終えたとき、グラハムは、彼がカトリックであることを見抜き、自分もカトリックであることを告白する。そのグラハムが、突然ミサに現れたとき、 司祭であるグレッグは硬直し、彼に聖体拝領を行うことができず、教会は一瞬騒然とする。そこには単に秘密の露顕を恐れるというような相容れない世界の軋轢とは異なる微妙な緊張が漂っている。そして、この映画のラストでは、教義ではなく真実の聖体拝領とは何かが描きだされ、主人公の信仰が浮き彫りになるのである。

 
 
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