パトリシア・ロゼマ監督のカナダ映画『月の瞳』とアントニア・バード監督のイギリス映画『司祭』は、作品のスタイルやムードはまったく違うが、テーマに共通するところがあり比較してみると興味深い。
『月の瞳』の主人公カミールは、ミッション系の大学で神話学を教える講師で、同じ大学に勤めるマーチンと婚約している。ふたりは敬虔なクリスチャンであり、彼らの上司は、いっそう信仰を深めていくためにも早く結婚することを強く勧めている。そんな時、カミールは、
サーカス一座の一員である娘ペトラに偶然出会い、その自由奔放な生き方にひきつけられ、肉体的にも愛し合うようになり、宗教の教義に縛られた保守的な世界と自由で官能的な世界の狭間で次第に追い詰められていくことになる。
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『司祭』の主人公は、リヴァプールのカトリック教会区に着任したばかりの若い司祭グレッグ。彼は、信仰に厚く理想に燃えているが、もう一方で他言もできない秘密を抱え込んでいる。実は彼はゲイで、欲望が抑えられなくなると僧衣から革ジャンに着替え、
夜の街に彷徨いだし、バーで男を物色し欲望に身をまかせる。しかし、あるトラブルからその秘密が衆人の知るところとなり、彼は、教会権力の圧力や信徒の偏見のなかで苦悩し、追い詰められていく。
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というように、この二本の映画は、キリスト教の宗教的な世界とホモセクシュアリティの深い溝を描いている。但し、こんなふうに主題だけを抜きだすと、いかにもハードなメッセージを前面に押しだした社会派映画のようにも思われそうだが、どちらもそれぞれに個性的で、かなり柔軟な感性で主題を扱っているところがまず印象的である。
『月の瞳』は、主人公カミールの愛犬が死んでしまうところから話が始まる。彼女は、その犬の死を受け入れることができず、死骸を冷蔵庫にしまいこんでしまう。要するに、頭には教義が詰まってはいるが、犬の死を受け入れるための自分の宗教観というものがまだまったく出来上がっていないのだ。
そんな彼女は、コインランドリーで偶然ペトラと出会い、彼女の衣服を持ちかえってしまう。カミールには婚約者と上司に面談する約束があり、仕方なくペトラの洋服を着てみる。そして、最初はその大胆なデザインにどぎまぎするのだが、厳格な上司から結婚の心得を聞かされるうちに、奇妙な解放感を感じだす。
そこで今度はそんな洋服の持ち主に関心を持ち、ペトラに惹かれていくことになる。
この映画では、ペトラの幻想的なパフォーマンスや大空を舞うハンググライダー体験、そして、カミールとペトラのエロティックなセックス・シーンなどが非常に印象に残るはずだが、それは、いま書いたようなささやかなエピソードを通して、カミールが自分の肌で感じとれる部分から少しずつあらためて世界を受け入れていくような視点が生きているためである。
これに比べると『司祭』の場合は、全米のカトリック教会がボイコット運動を展開したり、ローマ法王が抗議声明を発表したというだけあって、極めてシリアスな作品のような印象を与えるが、筆者には皮肉やユーモアが冴えを見せる映画のように思える。
たとえば、一方で現実ではなくあくまで教義に基づく理想を前面に押しだし、他方で秘密の欲望に駆られる司祭グレッグの存在は、『月の瞳』のカミールと同じように頭と身体のバランスを失っている。映画は、そんな司祭を現実のなかに放りだす。カトリックでは司祭の結婚は禁じられているが、彼の先輩の司祭は、
家政婦ということでカモフラージュして女と同棲していることがわかる。
さらにグレッグは、告解で高校生の娘から父親に辱められたことを告白され、その父親からは近親相姦が人間の本性であるかのような告白をされ、告解の内容を他言できない宗規ゆえに自己の無力さに苛まれる。いうなれば、彼もまた自分の肌で現実に曝されていくことになるわけだ。
グレッグは、そうしたトラブルから秘密が暴露されることになり、人里離れた教区の頑迷な司祭に預けられるのだが、そこにユーモラスな場面がある。食事の前にこの頑迷な司祭がグレッグにラテン語で説教を始める。その場の空気はピンと張り詰めている。そこに家政婦の老女が食事を運んできたとき、
その老女のエプロンには"MEAT IS MURDER"というメッセージがでかでかと書かれているのがわかる。