ピーター・ミュラン監督の『マグダレンの祈り』とカルロス・カレラ監督の『アマロ神父の罪』は、どちらも修道院と教会という宗教の世界を舞台としている。だが、ドラマから浮かび上がってくるのは、信仰とは程遠い世界である。そして、それぞれの監督の批判精神ゆえに、神なき聖職者の姿は、シリアスなドラマを転覆させかねない滑稽すら漂わせる。
アイルランドには、カトリック教会や家父長制によって性及び女性が極端なまでに抑圧されてきた歴史がある。ミュランがマグダレン修道院の実話をもとに作り上げた『マグダレンの祈り』に登場する修道院は、それを象徴するような施設だ。この修道院に送られるのは、父親や神父から一族の恥という汚名を着せられた女性であり、彼女たちには洗濯部屋での重労働が課せられる。
この映画の主人公は、1964年の同じ日にそこに送られた三人の娘たちだが、たとえばマーガレットは従兄弟にレイプされた犠牲者であり、孤児院にいたバーナデットは近所に住む少年たちの人気の的になっただけだった。それなのに娘たちは、刑務所よりも悲惨な監禁生活を強要される。
ミュランが痛烈な皮肉を込めて描く修道女たちの姿は、冷酷を通り越して滑稽にも見える。奴隷同然の娘たちには粗末な食事を与え、自分たちはその目の前で飽食に明け暮れる。若さへの嫉妬から、娘たちを全裸にして辱める。
修道院長は、札束を数え、缶に入れてテープで封をする。やがて缶は立派な金庫に変わるが、鍵を紛失して血相を変えて探しまくる。極めつけは、クリスマスの映画上映会だろう。彼女は、レオ・マッケリー監督の『聖メリーの鐘』で神に祈るバーグマンに見入り、感動に浸っている。そこはもはや修道院ではなく、娘たちが一方的に搾取される奴隷の世界なのだ。
一方、19世紀のポルトガルの小説を現代のメキシコに置き換えた『アマロ神父の罪』では、司教から将来を嘱望され、修養のために小さな町に派遣された新人のアマロ神父が、信仰を逸脱した世界に引き込まれていく。
アマロを預かる町の司祭は、愛人を抱え、麻薬密売組織から寄付を受けている(教会と麻薬密売組織の繋がりは特に90年代にメキシコで問題になった)。その事実を新聞が嗅ぎつけると、すべてを承知している司教はアマロに、教会権力による揉み消しを命じる。さらにアマロ自身が、信仰心の厚い16歳の娘アメリアと恋に落ち、彼女を妊娠させてしまう。
ところが終盤に来て私たちは、この映画が聖俗をめぐるドラマのように見えながら、実は最初からずっと聖の世界の奥行きが完全に欠落していたことに気づく。『マグダレンの祈り』では、修道院は形だけでも、娘たちには信仰があったが、この映画では、すべての信仰が表層的で、政治や権力にあっさりと飲み込まれる。
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