トッド・ソロンズ・インタビュー

2005年 新宿 パークハイアット東京

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(初出:「STUDIO VOICE」2005年5月号)
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二極化するアメリカと生まれ変われるという幻想

 自分が生まれ育った場所でもあるニュージャージーのサバービアを舞台に映画を撮りつづけるトッド・ソロンズ。彼の作品の鍵を握るのは常に人間同士の違いだ。登場人物たちは、男女、大人と子供、美醜、階層や貧富、人種、異性愛と同性愛、健常者と障害者、才能や名声などが生み出す境界をめぐって、違いに憧れ、違いに苦しみ、違いを求め、違いを憎悪し、違いに翻弄され、悲惨であると同時に滑稽にも見える状況に陥っていく。

 新作の『おわらない物語−アビバの場合−』は、ソロンズの出発点となった『ウェルカム・ドールハウス』のヒロインだったドーンの葬儀から始まる。従姉のドーンがレイプされ、自分の分身が生まれてくることに耐え切れずに自殺したことを知った幼いヒロインのアビバは、自分が彼女と違うことを身を以って証明しようとする。だが、12歳で妊娠にこぎつけたものの、母親から中絶を強要される。それでも諦めきれない彼女は、手術が失敗したことも知らずに冒険の旅に出て、恵まれない子供たちに救いの手を差し延べるクリスチャンのママ・サンシャインに受け入れられる。

 この映画では、中絶合法化をめぐって対極にある家族がソロンズ流の皮肉や風刺の対象となるが、ドラマはそれだけでは終わらない。アビバは、年齢、性別、人種、容姿が異なる8人の役者によって演じられる。映画の原題である"Palindromes(回文)"は、アビバ(Aviva)やボブ(Bob)などの名前に現われるだけでなく、台詞やドラマにも埋め込まれている。ソロンズはそんな仕掛けによって、これまでとは異なる視点から人間同士の違いを掘り下げていくのだ。

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――ティム・バートンの『シザーハンズ』では、歴史や伝統といった要素が希薄で画一的なサバービアのなかで、孤立する少年の想像力がお伽話的な世界を作り上げます。『おわらない物語』でも、アビバがサバービアからお伽話的な世界に引き込まれていくところが、まず印象に残るのですが。

「僕がサバービアを舞台にした作品を作るのは、まず何よりもそこが、自分という人間を形作った場所だからだ。僕は、ニュージャージーのサバービアで生まれ育ち、早くこんなところを出て、ニューヨークに住みたいと思っていた。いまはニューヨーク在住なので、その夢が現実になったともいえる。『シザーハンズ』は大好きだけど、あの映画の興味深いところは、かつて都会の人々が夢見た、実際には存在しないサバービアを描いているところにあると思う。現代のサバービアは、画一的だとは思わない。白人ばかりでなく様々な人種の人々が暮らし、第二次大戦後ではあるものの、そこには伝統があり、都市にはない文化を生み出している。僕が興味を引かれるのは、空虚や疎外といったクリシェだけでなく、人々がサバービアというフィルターを通してどのように世界を体験し、その人生が形作られていくのかということなんだ」

――ジョン・ウォーターズトッド・ヘインズ、テリー・ツワイゴフ、ケヴィン・スミスなど、サバービアを描く作家にはやはり関心を持っているのでしょうか。

「ひとりを除いてね。ウォーターズはもはやアイコンであって、個々の作品の良し悪しは問題ではない。その存在が作品を越えてしまっている。ヘインズは、ほんとに素晴らしい才能を持った監督で、サバービアだけでなくアメリカの日常を鋭くとらえる文化的なリアリティが際立っている。ツワイゴフは友人でもあるので、私情も入るけど、作品は大好きだし、新作を楽しみにしている。ケヴィン・スミスについては、とてもすてきな人だということで…」

――『ウェルカム・ドールハウス』のドーンが、いじめっ子からレイプしてやると脅かされても、呼び出しに応じたり、『ハピネス』のヘレンが、自分が空っぽであることに悩み、レイプされれば真に迫った作品が書けると思ったり、アパートの守衛が住人の女性をレイプしたり、『ストーリーテリング』の女子大生と黒人教授の関係とか、この新作で語られるドーンの死の真相やアビバと運転手のボブとの妊娠に繋がらない関係など、あなたの作品には、レイプに絡む表現や言及が目立ちますが、そこにはどんな狙いがあるのでしょうか?

「うーん、そんなに準備してくることないのに(苦笑)。まずこれは重要なことだと思うので指摘しておくと、新作のアビバとボブの関係については、むしろアビバの方が子供を欲しくて彼を襲う、彼は獲物であって、結果的に罪悪感に苛まれるという図式を意識していたんだ。そうでなければ、少女と大人がセックスするシーンは撮れなかったと思う。
 レイプという要素が作品によく出てくることについては、正直なところ自分ではよくわからない。脚本を書いているときには、クリエイティヴな想像があるだけで、最初から意識して盛り込んでいるのではない。ただひとついえるのは、脚本でセックスを扱うことによって、キャラクターに対する理解が深まり、人間の本質が浮かび上がってくるような面白さがあるということだ。でも日常では、そういうことに対するオブセッションがあるわけではない。たとえば、『ハピネス』のヘレンが、レイプされていればって思うのは、ひとつの風刺だといえる。確かにそうやってよく出てくるということは、何かあるんだろうけど」

◆プロフィール◆

トッド・ソロンズ
1959年10月15日アメリカ、ニュージャージー州ニューアーク生まれ。ラビ(ユダヤ教の聖職者)志望であったが、あるときから脚本家を目指すようになった。イェール大学卒業後、ニューヨーク大学フィルムスクールに入学。そこで製作した3本の短編"Feelings"、"Babysitter"、"Schatt's Last Shot"が映画祭で賞を受け、在学中からインディペンデント・フィルム界で注目を浴びる。"Schatt's Last Shot"にはスタンフォード大入学を目指す高校生役で出演もしている。卒業後、人気TV番組「サタデー・ナイト・ライブ」のために短編"How I Became a Leading Artistic Figure in New York City's East Village Cultural Landscape"を製作する。89年に脚本・監督をつとめた"Fear, Anxiety and Depression"をL.A.で発表する。これはある脚本をサミュエル・ベケットに送りつけて共同製作を提案したという実話を題材にしたソロンズのほぼ自叙伝的な作品である。しかし、興行的には失敗であった。N.Y.に戻ってロシア移民の英会話学校に勤めながら脚本を執筆した『ウェルカム・ドールハウス』(96/監督・脚本・プロデュース)がサンダンス映画祭でグランプリを受賞する。ニュージャージーを舞台に、学校でも家でも疎外され、それでもひたむきに生きる少女ドーンの不器用な青春を描いたこの作品はトロント映画祭やベルリン映画祭でも賞を受賞し、世界中で大反響を巻き起こした。『プリティ・プリンセス』などで今や大活躍のヘザー・マタラーゾを世に送り出した作品としても名高い。98年に監督・脚本を務めた『ハピネス』は再びニュージャージーを舞台に中流家庭に育った3姉妹と彼女らを取り巻く人々の「幸せ」を描き、カンヌ映画祭批評家賞を受賞。ジョン・ウォーターズ監督は「この10年で最高の1本」と激賞し、米プレミア誌の年間ベスト100では堂々の4位に輝いた。続いて監督・脚本を務めた『ストーリーテリング』は01年カンヌ映画祭やニューヨーク映画祭、サンダンス映画祭に出品され、ゴールデン・グローブ賞最優秀脚本賞にノミネートされた。これまたニュージャージーを舞台にアメリカ社会における人種、階級、障害、性、学歴…あらゆるモラルに対するタブーをえぐりだし、ニューヨーク・タイムズ紙ではその年のベスト10にランキングされている。先ごろ行われたストックホルム映画祭04では、現代作家の業績を称え、奨励する目的で創設されたVisionary Awardという賞がトッド・ソロンズに与えられた。

(『おわらない物語 -アビバの場合-』プレスより引用)

 

 



――この新作では、アビバの家族とサンシャイン一家が対置されています。そのサンシャインの子供たちが演奏会を開く前に、こんな忠誠の言葉が流れます。「私は合衆国国旗に忠誠を誓います。ここは国旗に象徴された神の下に不可分の国…」。この国旗と神の結びつきは、政教分離の原則が揺らぐこの数年のアメリカを象徴しているように思えたのですが。

「あれは、サンシャイン一家に対する自分なりの風刺だ。もう一方の世俗的でリベラルな家族に対する風刺ももちろんあるけど、サンシャイン一家に対する風刺の方がキツイと自分でも思う。映画で使っている忠誠の言葉は、オリジナルではないけれども、僕の創作ではなく実際にあるものだ。アメリカに広がるバイブルベルトのなかで書き直されたもので、彼らは中絶反対派だから、最後の部分に「生まれた者も生まれなかった者も(born and unborn)」という言葉が入っているんだ。
 アメリカでは、最初の200年間は、国家と教会の間に基本的で明確な境界線が引かれていたけど、確かにいまはそれが揺らいでいる。信仰について問われれば、国民の46%が福音主義的だと答え、その他にもプロテスタントやカトリックなどいろいろいるのだから、宗教的で厳格な国民であることは間違いない。そして大統領選で赤と青の州がはっきり分かれるように、保守とリベラルの二極化が進んでいる。この映画には確かにそんな現実が反映されているけど、作っているときにはそれを意識していたわけではなく、できあがってから気づいたんだ」

――アビバは、ふたつの家族が象徴する二極化された世界の狭間で、宙吊りになります。この映画で、ほんとに自由な空気が漂っているのは、ふたつの世界の中間領域にあり、"ハックルベリー"というタイトルが付けられたパートだけのように思えるのですが。

「この映画には、世俗的なリベラル派とキリスト教保守派、中絶合法化の賛成派と反対派のふたつの世界がある。しかし、賛成派(pro-choice)は、選択を尊重するはずなのに、アビバ個人の選択を許さず、反対派(pro-life)は、生命を尊重するはずなのに、人を殺そうとする。アビバが出会うクリスチャンの一家は、奇妙であると同時にパラダイスでもある。宗教やイデオロギーに縛られいるとはいえ、障害児や親の愛に恵まれなかった子供たちを養うことは美徳でもあり、リベラル派が彼らの奇妙さを笑おうとしても、その笑いは虚ろなものになってしまうだろう。アビバの妊娠が発覚したとき、母親は、脳に障害があったり、足がなかったり、目が見えない子供が生まれたらどうするのかと説得するけど、サンシャイン一家に受け入れられたアビバは、そこにいるのが、自分が生まなかった子供たちかもしれないと思う。そういう関連性が、非情に複雑な状況を作り上げているんだ。
 "ハックルベリー"のパートは、チャールズ・ロートンの『狩人の夜』からそのままいただいたシークエンスで、まさに二極化した世界の中間領域にあたる。アビバは、打ち捨てられたようなおもちゃの船に乗り、ミステリアスな川を漂い、ここではないどこかに向かう。バックに流れる音楽も含めてほんとに切なくて、自分でも好きな場面なんだ」===> 2ページへ続く


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