トッド・ソロンズ監督の『おわらない物語‐アビバの場合‐』と瀬々敬久監督の『肌の隙間』は、一見まったく異なるタイプの作品に見える。『おわらない物語』には、笑うことに後ろめたさを覚えるようなソロンズならではのユーモアが散りばめられている。一方、昨年(2004年)末にピンク映画として公開されている『肌の隙間』は、男女の情念や濃密な空間がイ・チャンドン監督の『オアシス』やキム・ギドク監督の『魚と寝る女』などを想起させる。
しかしこの2作品には、意外なほど多くの興味深い共通点がある。主人公はともに、ある種のイノセントな存在だ。彼らはそれぞれの事情で逃亡をはかり、ここではないどこか=外部を目指す。彼らがイノセントな存在であるだけに、その逃避行からは寓話的な世界が切り開かれるかに見えるが、現実がそれを凌駕してしまう。彼らが到達する外部もまた、単に閉ざされた世界の一端であり、彼らは戻ることを余儀なくされる。
というよりも、逃避行によって内部と外部の図式は崩壊する。彼らはどこに行っても外的な力に規定されている。そしてここが肝心なところだが、にもかかわらず、そのことによって彼らの本質がより明確になっていく。
■■人間が変わらないことを象徴するPalindromes(回文)■■
『おわらない物語』は、『ウェルカム・ドールハウス』のヒロインだったドーンの葬儀から始まる。従姉のドーンがレイプされ、自分の分身が生まれてくることに耐え切れずに自殺したことを知った幼いヒロインのアビバは、自分が彼女と違うことを身を以って証明しようとする。つまり、母親になろうとするのだ。
だが、12歳で妊娠にこぎつけたものの、母親から中絶を強要される。それでも諦めきれない彼女は、手術が失敗したことも知らずに冒険の旅に出る。その旅には、“ハックルベリー・フィン”の引用や川を渡る光景があり、彼女がサバービアの日常からその外部に踏みだしていくことを示唆する。
そしてアビバは、恵まれない障害児たちに救いの手を差し延べるクリスチャンのママ・サンシャイン出会い、受け入れられる。彼女には、そこが楽園に見えるが、一家は、裏で堕胎医を殺害し、彼女もそれに手を貸すことになる。サバービアに暮らすリベラルなアビバの両親は、中絶賛成派(pro-choice)でありながら、娘に選択を許さず、保守派のサンシャイン一家は、反対派(pro-life)でありながら、人を殺す。つまり、内部も外部も同じようなものであり、彼女は外的な力によって規定されていく。
この映画には、面白い仕掛けがある。アビバは、年齢、性別、人種、容姿が異なる8人の役者によって演じられる。映画の原題の“Palindromes(回文)”は、アビバ(Aviva)やボブ(Bob)などの名前に現われるだけでなく、台詞やドラマにも埋め込まれている。しかしこうした仕掛けは、もうひとつのキーワードを見逃すと、効果が薄れてしまう。
それはボーンアゲイン・クリスチャンの“ボーンアゲイン”だ。ブッシュはボーンアゲイン・クリスチャンになることで自堕落な生活から立ち直ったといわれるが、ソロンズはおそらくはそんなことも意識しつつ、この言葉からアイデアを膨らませていったのだろう。
この映画には、リベラルや保守派に関わりなく、必死に変わろうとしたり、変わったと信じる人物が出てくる。そして、その変わることと、人間が変わらないことを象徴する回文とがせめぎあい、最終的にそのふたつが逆転することにもなる。
ソロンズ作品の中核にあるのは、常に人間同士の違いだ。登場人物たちは、男女、大人と子供、美醜、貧富、人種、異性愛と同性愛、健常者と障害者などが生み出す境界をめぐって、違いに翻弄され、悲惨な状況に陥っていく。
この映画では、その違いが「変わること」に結びついている。なかでも表面上特に大きな変貌を遂げるのがアビバだが、回文を地でいく彼女は、母親になる願望を確かなものにするだけで、実は本質的には何も変わっていない。ラストの映像による回文は、彼女が逆戻りしていって、失った子宮を取り戻すようにすら見える。これに対して、変われるという幻想に囚われた人々は、自分を偽りつづけていくしかないのだ。
■■空間に出口を見出すのではなく、内なる野生に目覚める■■
一方、瀬々監督の『肌の隙間』に描かれるのは、叔母と甥の関係にある妙子と秀則の逃避行だ。ひきこもりの秀則は母親ゆきこを殺害し、一緒に暮らしていた自閉症の妙子が彼を連れて逃亡する。映画はそのふたりがスクーターで逃げているところから始まるので、詳しい状況はわからない。 |