『オアシス』の冒頭で、家族(母親と兄一家)のもとに戻ってくるホン・ジョンドゥは、暴行、強姦未遂、轢き逃げの前科三犯。刑期を終えた彼は、轢き逃げで亡くなった被害者の家族を訪ね、重度脳性麻痺の女コンジュに出会う。そして、花束を抱えて再び彼女のアパートを訪ね、勝手に部屋に上がりこみ、誘惑する。
そのうちに欲望が抑えられなくなった彼は、コンジュを強引に自分のものにしようとするが、彼女がショックで失神したために、慌てて逃げ出す。それはまさしく非道な行ないではあるが、顔と身体が激しく歪み、話すこともままならないコンジュは、彼の「かわいい」という言葉に心を動かされていた。
イ・チャンドンの過去の2作品『グリーンフィッシュ』と『ペパーミント・キャンディー』からは、変貌を遂げる韓国社会を象徴する境界線が浮かび上がってきた。『グリーンフィッシュ』では、主人公マクトンの家族が営む食堂とその背後に聳えるニュータウンの間に境界線が引かれていた。それは、歴史と歴史の終わりを分かつ境界線といってもよいだろう。マクトンは、あえて歴史を背負い、歴史に骨を埋める。『ペパーミント・キャンディー』の主人公ヨンホは、時間を遡っていく過程で、ニュータウンの不毛な生活から、境界線を越え、歴史のなかに深く分け入っていく。
『オアシス』には、もはやそういう境界線は存在しない。しかし、歴史が終わった世界のなかからは、新たな境界線が浮かび上がってくる。この映画は、前科者で突飛な行動を繰り返す男と重度脳性麻痺の女の純愛を描いている。だが、彼らのアウトサイダーや弱者の立場が、そのまま単純に境界線となるわけではない。
この映画でまず注目しなければならないのは、ふたりの主人公と彼らの家族との関係だろう。ジョンドゥは轢き逃げの罪で服役したが、実は事件を起こしたのは彼の兄だった。彼は進んで身代わりとなった。それは感謝されて然るべきだが、家族は正直なところ、彼が刑務所にいてくれた方が助かると思っている。
一方、コンジュの面倒を見るべき兄夫婦は、彼女を老朽化したアパートに置き去りにし、自分たちだけが真新しい身体障害者向けマンションに引っ越し、彼女との同居を装い、役所の目をくらましている。
歴史に踏み止まる『グリーンフィッシュ』のマクトンは、家族が一緒に暮らすことを夢見ていたが、歴史が終わった世界を生きるこの映画の登場人物たちは、身近な弱者やお人好しから搾取し、物質的な豊かさを求める。
ジョンドゥとコンジュには、なにもない。だが、なにもないからこそ、想像力が研ぎ澄まされていく。彼らは、ふたりだけの世界を構築していく。そこでは、コンジュも、自由に歩き、踊ることができる。そして、やがて幻想と現実が転倒する。 |