ジョン・ウォーターズといえば“バッド・テイスト”で有名な監督である。彼は、エッセイ集も何冊か書いていて、そのうちの1冊『クラックポット』は翻訳もされている。このエッセイ集は、ウォーターズのロサンジェルス案内から始まるのだが、そのなかにこんな記述がある。
LAまでの航空チケットなど安いものだ。必ず窓ぎわの席を取るように心がけよう。そうすれば、地平線の果てから果てまでべったりと広がるこの郊外住宅地の眺めに胸おどらせ、そこに地震が起きるさまを空の上から想像し、悦に入ることができる。それもセンサラウンドで。
この文章から、郊外住宅地に対する悪意を読みとることはたやすい。ウォーターズもスピルバーグと同じように、新しい郊外の世界で成長した郊外の子供の最初の世代に属している。そのウォーターズの生い立ちについては後でふれることにして、ウォーターズの映画にあまりなじみのない人のために、まずはバッド・テイストとはいかなるものかということから話を進めていくことにしよう。
ウォーターズの代表作『ピンク・フラミンゴ』を参考にするなら、バッド・テイストは“Filthy”という言葉に置き換えることができる。この言葉には「汚い、醜悪な、淫らな、卑猥な、堕落した、不道徳な」といった意味があるが、『ピンク・フラミンゴ』では“Filthiest Person Alive”――つまり、世の中でいちばんこの形容にふさわしい人物――という栄誉をめぐって、ディヴァイン一家とマーブル一家が壮絶な争いを繰り広げるのである。そこでこの映画には、レイプ、マスターベーション、近親相姦、殺人、変態セックス、窃視症、獣姦、フェティシズム、露出症、歌う肛門(?)などが盛り込まれ、結末には、怪優ディヴァインがほやほやの犬の糞を口にするというクライマックスが準備されているのだ。
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こうしたウォーターズのバッド・テイストは、郊外の世界と無関係ではない。たとえば、この『ピンク・フラミンゴ』というタイトルと映画の冒頭の場面だけでも、容易にそれを察することができる。この映画は、ディヴァイン一家が人目をはばかるように暮らすトレーラー・ハウスのシーンから始まる。
そのなかから現れるのは、一度見たら忘れようもない強烈なメイクに、ありあまる肉をドレスに押し込み、ジェーン・マンスフィールドを気取るディヴァイン。まさにバッド・テイストの世界だが、この冒頭のシーンでカメラが最初にとらえるのは、決して醜悪なものではなく、プラスティック製のピンク色のフラミンゴである。トレーラー・ハウスの前にフラミンゴが2、3羽飾ってあり、カメラはまずこのフラミンゴをとらえてから、トレーラー・ハウスを映しだすのだ。
このピンクのフラミンゴは、アメリカの郊外住宅の芝生に置く飾りで、俗っぽい郊外住宅のトレードマークといえるものだ。たとえば、第15章でとりあげるスティーヴン・キングの『クリスティーン』は、郊外を舞台にした小説だが、そのなかである家の庭がこんなふうに描写されている。
前庭の芝生には、すごくたくさんのプラスティックのおもちゃが並べてある(二羽のピンクのプラミンゴ、大きな石のかあさん家鴨の後ろにつながった、四、五羽の小さな石の子家鴨、そして、かなり大きなプラスティックの“願い事の井戸”と、プラスティックのバケツに植えられたプラスティックの花)。
というわけで、トレーラー・ハウスの前には緑の芝生こそ見当たらないが、このトレーラー・ハウスや人目をはばかるように暮らすディヴァイン一家には、郊外の世界に対する風刺の意味も込められているのである。バッド・テイストというのは、一見するとただ過激な表現のオンパレードのようにも見えてしまうが、そうした表現が郊外の世界と結びつくような家族劇になっているところに、ウォーターズの世界のユニークさがあるのだ。
ジョン・ウォーターズは、1946年にメリーランド州ボルティモアに生まれた。ということは、前の章でとりあげたスピルバーグよりひとつ年上の同世代で、ベビー・ブーマーの先頭の世代ということになる。
ここでは、アメリカで最もポピュラーなカルト・ムーヴィーとその作家たちにスポットをあてたスチュアート・サミュエルズの『Midnight Movies』を参考にして、ウォーターズの生い立ちを振り返り、彼の作品と郊外の関係を明らかにしていきたいと思う。
ウォーターズが育ったのは、ボルティモア郊外の町ルーサーヴィル。彼はその町で、毎日のように髪の色を変えて学校に通うグレン(後のディヴァイン)に出会う。ふたりはともに土地の紳士録に載るような家の出だったが、不良仲間となり、ドラッグにかたっぱしから手を出すようになる。
子供の頃から映画マニアだったウォーターズが、少年時代に最も気に入っていた映画は、『オズの魔法使い』だという。この映画に対するウォーターズの感想は、郊外の少年の感情を物語っているように思える。彼は、あの翼を持った猿たちが待っている館に暮らすことができるというのに、なぜ人々が醜い犬と胸の悪くなる両親のいる農場で暮らしたいと思うのか、ドロシーがなぜわが家に戻りたくなるのかまったく理解できなかったというのだ。そういう意味では、スピルバーグと同じように、郊外の生活のなかで映画の世界に救いを見出していたわけだ。
この『オズの魔法使い』については、ウォーターズと同じ1946年生まれのデイヴィッド・リンチの世界に注目する第16章で、もう一度あらためてふれる。映画好きの人ならそれだけで察しがつくかもしれないが、リンチの『ワイルド・アット・ハート』には『オズの魔法使い』が引用されているうえに、『ブルー・ベルベット』でイザベラ・ロッセリーニが演じる女の名前が“ドロシー”なのである。
こうしたベビー・ブーマーの先頭の世代が時代とどのようにかかわるのかというのは、本書の流れからいってとても興味深いところだが、ウォーターズは、時代の流れと深く、しかも微妙なバランスかかわっているようにみえる。
ウォーターズが映画を撮りだすきっかけは、彼が16歳のときに訪れる。祖母が買ってくれたスーパー8で映画をつくることに決めたのだ。できあがったのはまったく編集のない17分の作品で、その内容は白人の娘と結婚する黒人の男の話だ。男は彼女を口説くために、彼女をゴミバケツに入れてつれまわし、それからなんとKKKに結婚式をやらせるという。