ダウト〜あるカトリック学校で〜
Doubt


2008年/アメリカ/カラー/105分/ヴィスタ/ドルビーデジタルDTS・SDDS
line
(初出:「キネマ旬報」2009年3月下旬号)

疑惑をめぐるドラマは
様々な亀裂が広がる現代社会を見直す糸口になる

 ジョン・パトリック・シャンリィ監督の『ダウト〜あるカトリック学校で〜』の設定は、1964年、ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校。舞台劇の映画化なのでドラマが展開される空間はある程度限定され、その外にある世界は見えないが、アメリカ社会は大きく変わりつつある。

 ケネディ大統領暗殺や公民権運動、ヴェトナム戦争などで揺れる激動の時代。だが、政治や戦争だけではなく、日常生活にも目を向ける必要がある。実際にブロンクスのカトリック学校で少年期を過ごし、その体験を舞台劇と映画に投影しているシャンリィは、当時の日常生活のなかで変化を感じ取っていたに違いない。

 たとえば、「ニューヨーク・タイムズ」の記者だったJ・アンソニー・ルーカスが68年に発表したノンフィクション『ぼくらを撃つな! かつて若かった父へ』には、以下のような記述がある。「アメリカの辺境の生活や工業化時代の初期にさえふさわしかった労働の習慣は、60年代のしゃれた郊外で営まれる生活の場では、もはやあまり意味を持たなくなった。(中略)事実、アメリカ人は、急速に、仕事よりも遊びを、生産よりも消費を、生活を築くことよりもそこから何かを引き出すことを重視するようになってきている

 こうした変化は『ダウト』の背景と無縁ではない。台詞にもあるように、このカトリック学校に通っているのはほとんどがアイルランド系とイタリア系の労働者階級の子供たちだ。だが、映画では見えない外の世界で、学校を取り巻くコミュニティは変化しつつある。歴史をさかのぼってみると、まず都市に暮らす豊かなプロテスタントの人々が郊外に流出し、そこにアイルランド系やイタリア系の移民がやって来て、コミュニティを作った。

 そして60年代に新たな変化が起こる。貧しい労働者だったアイルランド系とイタリア系の人々は豊かになって中流化し、一方では、ヒスパニックやアジア系という新たな移民や黒人が都市に流入してくる。カトリックの教会は、そんな変化に対して、アメリカ人の新しい生活を不道徳とみなして閉ざされた教会を目指すのか、信仰や人種、階層の違いを越えてアメリカ社会と積極的に関わる開かれた教会を目指すのかという選択を迫られる。

 『ダウト』の導入部では、カトリック学校の校長であるシスター・アロイシスとフリン神父という二人の主人公の立場が巧みに描き出されている。大聖堂で説教を行うフリン神父は、ケネディ大統領の暗殺事件に触れ、絶望感が人々を結びつける絆になったと語る。彼は開かれた教会を目指している。これに対してシスター・アロイシスは、その説教の間、生徒たちを監視し、態度の悪い生徒を厳しく叱りつける。彼女は閉ざされた教会を目指している。背景を踏まえると、彼らが社会の変化をめぐって対極の立場にあることがわかる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/原案   ジョン・パトリック・シャンリィ
John Patrick Shanley
撮影監督 ロジャー・ディーキンス
Roger Deakins
編集 ディラン・ティチェナー
Dylan Tichenor
音楽 ハワード・ショア
Howard Shore
 
◆キャスト◆
 
シスター・アロイシス   メリル・ストリープ
Maryl Streep
フリン神父 フィリップ・シーモア・ホフマン
Philip Seymour Hoffman
シスター・ジェイムズ エイミー・アダムス
Amy Adams
ミラー夫人 ヴィオラ・デイヴィス
Viola Davis
-
(配給: ウォルト ディズニー スタジオ
モーション ピクチャーズ ジャパン )
 

 但しこれは、単に過去のある状況を克明に再現しようとする映画ではないし、対極の理想を持つ二人の主人公の衝突を描く映画でもない。シャンリィが強い関心を持っているのはあくあまで現代社会であり、彼は身近な体験を通して、疑惑が明確な証拠もないままに確信に変わるメカニズムを明らかにしようとする。

 シスター・アロイシスとフリン神父は、真実をめぐってせめぎ合っているように見えるが、実際には対立になっていない。フリン神父が黒人の生徒ドナルド・ミラーと性的な関係を持ったかどうかは定かではないが、どちらにしても彼は、人間の行動や感情には白か黒かで明確に分けられない領域があるという認識を持っているように見える。その領域には、証人でもいない限り、容易には踏み込めそうにない。

 一方、シスター・アロイシスもまた、単純に厳格な人間とはいえない。彼女の複雑さは、二人の人物との関係を通して明らかにされていく。そのひとりは、新任教師のシスター・ジェイムズだ。シスター・アロイシスは彼女に物事を疑惑の目で見るように指導し、その結果、フリン神父に対する疑惑が浮上する。ところがその疑惑は、シスター・ジェイムズが予想もしない方向へと転がりだす。彼女はシスター・アロイシスが司祭館に報告し、問題が処理されるものと思っていた。だが、シスター・アロイシスは司祭館の男性を信じていない。彼女は、ある高齢のシスターの目が不自由になっていることも内密にしている。司祭館に報告すれば解雇されるからだ。男性や教会の制度に対する不信を持つ彼女にとっては、教義や規律以上に疑惑が絶対的なものになっていくといってもよいだろう。

 さらに、もうひとりの人物、ドナルドの母親であるミラー夫人がそんなシスター・アロイシスに追い討ちをかける。彼女にとって何よりも大切なのは、息子を気にかけてくれる人間がいることであり、真相が明らかになることなど必要としていない。シスター・アロイシスは同性からの理解も得られず、孤立する。そして彼女のなかでは、フリン神父がスキンシップをとろうとしただけかもしれない行為が、疑惑を越えて確信に変わっていく。

 映画の導入部の説教の場面で、フリン神父は疑惑も絆になり得ると語る。だがそれは、自分に確信が持てなくなるという意味だ。シスター・アロイシスは、自分だけは疑わない。生徒やフリン神父や男性や教会の制度に対する疑惑こそが彼女を支えているからだ。

 シスター・アロイシスとフリン神父は、ひとつの問題をめぐって正面から向き合ってはいない。ただ疑惑が一人歩きし、確信に変わり、人々の間に亀裂を生み出していく。そんなドラマは、根拠のない確信から様々な亀裂が広がる現代社会を見直す糸口になるだろう。

《参照/引用文献》
『ぼくらを撃つな! かつて若かった父へ』J・アンソニー・ルーカス●
鈴木主税訳(草思社、1974年)

(upload:2009/05/31)
 
《関連リンク》
『ぼくらを撃つな! かつて若かった父へ』J・アンソニー・ルーカス ■
ホモセクシュアリティとカトリックの信仰――『司祭』と『月の瞳』 ■
信仰に名を借りた権力による支配の実態を暴く
――『マグダレンの祈り』と『アマロ神父の罪』をめぐって
■

 
amazon.co.jpへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp