ジョン・パトリック・シャンリィ監督の『ダウト〜あるカトリック学校で〜』の設定は、1964年、ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校。舞台劇の映画化なのでドラマが展開される空間はある程度限定され、その外にある世界は見えないが、アメリカ社会は大きく変わりつつある。
ケネディ大統領暗殺や公民権運動、ヴェトナム戦争などで揺れる激動の時代。だが、政治や戦争だけではなく、日常生活にも目を向ける必要がある。実際にブロンクスのカトリック学校で少年期を過ごし、その体験を舞台劇と映画に投影しているシャンリィは、当時の日常生活のなかで変化を感じ取っていたに違いない。
たとえば、「ニューヨーク・タイムズ」の記者だったJ・アンソニー・ルーカスが68年に発表したノンフィクション『ぼくらを撃つな! かつて若かった父へ』には、以下のような記述がある。「アメリカの辺境の生活や工業化時代の初期にさえふさわしかった労働の習慣は、60年代のしゃれた郊外で営まれる生活の場では、もはやあまり意味を持たなくなった。(中略)事実、アメリカ人は、急速に、仕事よりも遊びを、生産よりも消費を、生活を築くことよりもそこから何かを引き出すことを重視するようになってきている」
こうした変化は『ダウト』の背景と無縁ではない。台詞にもあるように、このカトリック学校に通っているのはほとんどがアイルランド系とイタリア系の労働者階級の子供たちだ。だが、映画では見えない外の世界で、学校を取り巻くコミュニティは変化しつつある。歴史をさかのぼってみると、まず都市に暮らす豊かなプロテスタントの人々が郊外に流出し、そこにアイルランド系やイタリア系の移民がやって来て、コミュニティを作った。
そして60年代に新たな変化が起こる。貧しい労働者だったアイルランド系とイタリア系の人々は豊かになって中流化し、一方では、ヒスパニックやアジア系という新たな移民や黒人が都市に流入してくる。カトリックの教会は、そんな変化に対して、アメリカ人の新しい生活を不道徳とみなして閉ざされた教会を目指すのか、信仰や人種、階層の違いを越えてアメリカ社会と積極的に関わる開かれた教会を目指すのかという選択を迫られる。
『ダウト』の導入部では、カトリック学校の校長であるシスター・アロイシスとフリン神父という二人の主人公の立場が巧みに描き出されている。大聖堂で説教を行うフリン神父は、ケネディ大統領の暗殺事件に触れ、絶望感が人々を結びつける絆になったと語る。彼は開かれた教会を目指している。これに対してシスター・アロイシスは、その説教の間、生徒たちを監視し、態度の悪い生徒を厳しく叱りつける。彼女は閉ざされた教会を目指している。背景を踏まえると、彼らが社会の変化をめぐって対極の立場にあることがわかる。 |