ジェームズ・マーシュ監督の『キング 罪の王』は、海軍を退役した若者エルビスが、テキサス南部の町コープス・クリスティ(キリストの死体を意味する)にたどり着くところから始まる。彼は、町の教会を訪れ、牧師のデビッドに、自分が彼の息子であることを告白する。妻と息子のポール、娘のマレリーと幸福な家庭を築いているデビッドは、彼を息子と認めるものの、一家に近づくことがないように冷たく突き放す。町に留まったエルビスは、自分の正体を明かさずに純真なマレリーを誘惑し、彼らの関係に気づいてモーテルに現れたポールにナイフを向ける。
このドラマには、現代のアメリカが反映されている。テキサスはブッシュ大統領の地元である。デビッドは、最初にエルビスと対面した時に、彼の母親(彼女は娼婦だった)と過ちを犯したのは、キリスト教徒になる前のことだと語る。彼は、ブッシュ大統領と同じように、自堕落な生活から立ち直り、生まれ変わったボーン・アゲイン・クリスチャンなのだ。さらに、彼とポールは、ブッシュ大統領と同じように、進化論に対抗するための理論インテリジェント・デザインを支持している。また、一方でこのドラマは、カインとアベルやオイディプス王といった神話的な物語をモチーフにしてもいる。
しかし、それ以上に重要だと思えるのが、そうした政治性や神話性を際立たせる独特の感性とスタイルだ。この映画は、テレンス・マリックから少なからぬ影響を受けているという意味で、ショーン・ペンの監督作やデヴィッド・ジェイコブソン監督の『ダウン・イン・ザ・バレー』と深い繋がりを持っている。かつてマリックの『地獄の逃避行』を手がけたエドワード・R・プレスマンが、この映画の製作総指揮を務めているのは決して偶然ではない。
ショーン・ペンの監督作の鍵となるのは、狩猟のイメージだ。『インディアン・ランナー』の冒頭では、鹿を狩るインディアンと犯罪者を追跡する警官が対置される。『プレッジ』では、殺人犯を追い続ける元刑事が、餌がなければ見えない魚を捕らえることはできないという考えに囚われ、愛する者を危険に晒し、運命の悪戯に翻弄されていく。正義感や信念が歪み、感情や衝動が勝る時、追う者は、社会的な制度を逸脱して、自然の摂理だけに従う狩人に変わる。マリックの世界では、自然と社会的な制度が対置されるが、ペンはそこから独自のヴィジョンを切り開き、単純な善悪の基準では割り切れない人間の本性を描き出そうとする。
『地獄の逃避行』を意識した『ダウン・イン・ザ・バレー』には、『キング 罪の王』と多くの共通点がある。厳しい刑務官の父親ウェイドとロス郊外に暮らすトーブとロニーの姉弟は、彼らの前に現れたカウボーイを自称する男ハーレンに惹かれていく。だが彼は、自分の思い通りにならないトーブを反射的に撃ってしまい、ロニーを騙して連れ出し、ウェイドに追われる身となる。
この映画では、ハーレンが自然や個人の自由を、ウェイドが家族や秩序を象徴しているように見えるが、彼らはそれぞれに矛盾を抱えている。ハーレンは、実は家族を求めているが、誰にも受け入れられないために、カウボーイの幻想に囚われ、ウェイドは、銃のコレクションが暗示するように、アメリカでは強者だけが生き残るという考えを持ち、ひ弱なロニーを見限っている。だから、ハーレンとロニーは疎外感を共有し、そこに家族のような絆が生まれる。 |