そのマレリーがエルヴィスに誘惑され、深入りしていくのは、決して若さのせいだけではない。一方、エルヴィスのことを警戒していたデヴィッドも、狩猟で男らしさを確認すると、彼をあっさりと受け入れてしまう。つまり、家族を追い詰めるのは、ホモソーシャルな関係や抑圧なのだ。
では、この『シャドー・ダンサー』の場合はどうか。映画のプロローグでは、父親から買い物を頼まれたコレットが、それに従わず代わりに弟を行かせ、彼が紛争の流れ弾の犠牲になってしまう。
母親となったコレットは、その罪悪感を拭い去ることができない。MI5のマックはそんな彼女に、弟の検視調書を見せる。その記録は、弟の命を奪ったのがIRAの流れ弾であることを物語っていた。
なぜコレットは内通者になるのか。もちろん、息子と離れたくないという気持ちもある。調書の事実が影響を及ぼしていることも間違いない。しかし、それだけであれば筆者はこの映画にそれほど興味を覚えなかっただろう。
70年代前半といえば、IRAが平和的解決か武力闘争かをめぐって分裂し、北アイルランドでは武力闘争を主張する暫定派が多数を占めた時期にあたる。そうした背景を考えれば、このような事件を暫定派が利用しようとしたとしても不思議ではない。
注目すべき点は別のところにある。プロローグで最も印象に残るのは、弟が死んだあとで、コレットを無言で睨みつける父親と、その眼差しに怯える彼女の姿だ。それはなにを物語っているのか。アイルランドが伝統的に家父長制の根強い世界であることを考えるなら、死んだのが息子で、自分が娘であることが彼女に重くのしかかっていることは容易に察することができる。
そのことを踏まえれば、『キング 罪の王』と『シャドー・ダンサー』は状況がまったく違うにもかかわらず、デヴィッドの一家とエルヴィス、コレットの一家とマックには共通する図式があることに気づくはずだ。
『シャドー・ダンサー』に登場するアイルランド人の女性たちは、伝統的な家父長制とIRAのホモソーシャルな連帯関係という二重の抑圧に苦しめられている。そして、そんな孤独と心の痛みが予想もしないラストを招きよせることになる。 |