ダウン・イン・ザ・バレー
Down in the Valley


2005年/アメリカ/カラー/112分/シネスコ/ドルビーデジタル・DTS
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(初出:『ダウン・イン・ザ・バレー』劇場用パンフレット、若干の加筆)

 

 

アメリカの矛盾を浮き彫りにする
サバーバン・ウエスタン

 

 ロサンゼルス郊外にあり、丘陵に囲まれたサンフェルナンド・バレー(以下「バレー」と略す)は、アメリカのサバービアの代名詞になっている。バレーでは、第二次大戦後にいち早く郊外化が進み、緑の芝生にスプリンクラー、自家用プール、バーベキュー、スーパーマーケットやショッピングセンターという豊かなサバーバン・ライフの先駆けとなった。だが、戦後の楽天的な時代を彩った幸福のイメージと現実にはギャップがあった。生活が単調で娯楽に乏しいサバービアは、閉塞感を生み出し、荒廃していく。バレーは、80年代の半ばには全米で最も離婚率が高く、犯罪が横行する地域となっていた。

 その一方でバレーは、アメリカのサバービアのなかで特異な空間でもある。この地域は、マルホランド・ドライブが走る丘陵を隔ててハリウッドと隣接するばかりではなく、バレーウッド(Valleywood)と呼ばれるほどに映画産業が栄えた場所でもあった。郊外化の背景には、セレブの社交場への憧れもあった。しかしそうした基盤からはやがてポルノ産業が生まれ、バレーはいつしか世界のポルノ産業の中心地となっていた。バレー出身のポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』では、高校を中退し、家出した若者がポルノスターの幻想に溺れていくが、この映画は、サバービアの荒廃とポルノ産業が交わるバレーならではの物語になっているのだ。

 そして、同じくバレー出身のデイヴィッド・ジェイコブソンが監督した『ダウン・イン・ザ・バレー』からは、さらにディープなバレーならではのドラマが浮かび上がってくる。テキサス訛りでカウボーイを自称する風変わりな男ハーレンとサバービアという取り合わせは、一見ひどく奇異なものに見える。だがこのドラマは、『ブギーナイツ』とはまた違った意味で、バレーの特異性と深く結びついているのだ。

 郊外化が進む遥か以前、バレーには、牧場や農場が広がっていた。そこに20世紀初頭から次第に映画産業が進出するようになり、バレーウッドが形成されていく。その初期の時代、この土地には、本物のカウボーイや農場の労働者がたくさんいて、エキストラとして働くこともあったという。さらに、チャッツワースのような西部を描くのに格好のロケーションがあり、最盛期には、カウボーイものの映画の9割がそこで撮影されていたという証言もある。そうしたロケ現場は、フリーウェイの建造によってその役割を終え、今度はサバービアが広がっていく。現在では、平地の部分は住宅で埋め尽くされ、周囲の丘陵地帯には、トッド・ヘインズ『SAFE』に描かれているようなセキュリティを重視した高級住宅地が今も増殖しつつある。

 そうした郊外化には当然、抵抗もあった。元カウボーイ俳優のロバート・M・パーセルは、郊外化によって伝統が破壊されることに危機感を覚え、チャッツワースの土地を、自動車や近代的な設備のない、本物の西部の町として保存することを提案した。「現代の産業の発展は、カウボーイと馬と牧場をロサンゼルスの片隅に追いやっている。サンフェルナンド・バレーの西端は、今やわれわれの最後の避難所なのだ」というのが彼の言葉だ。しかしその夢は、すぐに忘れ去られていく。


◆スタッフ◆

監督/脚本   デイヴィッド・ジェイコブソン
David Jacobson
撮影監督 エンリケ・シェディアック
Enrique Chediak
編集 リンジー・クリングマン、エドワード・ハリソン
Lynzee Klingman, Edward Harrison
音楽 ピーター・サレット
Peter Salett

◆キャスト◆

ハーレン   エドワード・ノートン
Edward Norton
トーブ エヴァン・レイチェル・ウッド
Evan Rachel Wood
ウェイド デイヴィッド・モース
David Morse
ロニー ローリー・カルキン
Rory Culkin
チャーリー ブルース・ダーン
Bruce Dern

(配給:アートポート)
 


 映画のなかのカウボーイが象徴するような個人主義や自由とサバービアの基盤となるコミュニティ精神は相容れない。『ダウン・イン・ザ・バレー』で、そんな矛盾を抱えているのは、必ずしもハーレンだけではない。ウェイドとハーレンのなかには、対照的な矛盾がある。ウェイドは、サバービアに暮しているにもかかわらず、銃のコレクションが暗示するように、家族の絆よりも個人主義を重視し、自分の殻に閉じこもるロニーを見限っている。一方、実はバレー育ちのハーレンは、家を飛び出し、不毛な現実から失われたカウボーイの幻想に逃避し、精神のバランスを失いかけている。そんな彼には、ロニーの孤独が理解できる。ロニーもまた、自分を一人前の人間として扱い、銃の撃ち方を教えてくれるハーレンに憧れを持つ。

 そして、この映画で最も興味深いのは、対照的な矛盾を抱えるハーレンとウェイドが繰り広げる追跡劇だ。彼らを取り巻く世界は、まるでバレーの歴史をたどるように、本物の西部、西部劇、サバービアをめぐって変化していく。最初に、闇に包まれた丘陵で、ハーレンがロニーに肝試しを行う場面は、本物の西部を生き抜くための通過儀礼のようにも見える。その翌日、目覚めたハーレンの前に出現するのは、現代に甦った西部劇の世界だ。しかし、この逃亡者が放つ実弾は、その幻想を撃ち砕いていく。最後の決闘の場となるのは丘の上だが、そこは建築中の高級住宅に占領されている。この一連の変化は、ユーモアや風刺の次元を越えて、現実を強烈に異化してしまう。そして、奇妙な宙吊り状態に追いやられた男たちの悲劇が、決して銃弾では答えが出せないアメリカの矛盾を浮き彫りにするのだ。

《参照/引用文献》
"The San Fernando Valley: America's Suburb"●
by Kevin Roderick (Los Angels Times Book, 2001)

(upload:2006/10/14)
 
 
《関連リンク》
サバービアの憂鬱――アメリカン・ファミリーの光と影 ■

トッド・ヘインズ 『SAFE』 レビュー

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ポール・トーマス・アンダーソン 『ブギーナイツ』 レビュー ■
ポール・シュレイダー 『ボブ・クレイン 快楽を知ったTVスター』 レビュー ■
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