実際、サンフェルナンド・バレーは、80年代半ばには全米で最も離婚率が高く、不満を抱えた若者たちやスラムから流れ込むギャングがトラブルを引き起こす場所となっていた。また、ハリウッドに近いこの地域周辺では、ポルノ産業が発展し、全米に出回るポルノの大半が作られているともいわれた。
『ボブ・クレイン』の物語が始まるのは64年。クレインは、ラジオからテレビへと進出し、さらなる成功を手にするが、夫婦の間には確実に亀裂が広がっている。これまで熱心に教会に通い、酒も煙草もやらず、浮気とも無縁だった堅物は、カーペンターと出会ったことがきっかけで女漁りを始める。60年代から70年代にかけて進展していく性革命と歩調を合わせるようにセックスに深くのめり込み、ポラロイドやビデオで快楽の王国を作り上げていくのだ。
時代背景はずれるが、この映画は、サンフェルナンド・バレーを舞台にしたポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』と比較しても面白い。『ブギーナイツ』の物語は、クレインがアリゾナで死体で発見される70年代末から始まり、巨大なイチモツでポルノ界の頂点に立つ若者の野心や葛藤が描かれる。この映画の素晴らしさは、過去を背負う孤独な登場人物たちが、ポルノ業界のなかに擬似家族を作り上げるドラマを通して、夢のハリウッドとポルノ、夢のサバービアと崩壊した家庭というアメリカの幻想と現実が鮮やかに対置されているところにある。
ボブ・クレインは、この『ブギーナイツ』の主人公の先を行こうとしていたともいえる。ジャック・レモンに憧れ、映画を目標にしていた彼の成功は、テレビドラマで終わり、キャリアは下降線をたどっていく。そこで彼は、手術でペニスを大きくし、ポルノ映画のスターになろうとする。まさにこの映画でも、ハリウッドとポルノ、サバービアと崩壊した家庭が巧みに対置されているのだ。
しかし、それだけではない。この映画と『ブギーナイツ』には決定的な違いがあり、それがこの映画を非常に興味深いものにしている。『ブギーナイツ』の登場人物たちは、ショービジネスの派手な世界の裏で、自分の仲間が過去を背負い、孤独に苛まれていることを理解し、擬似家族を作り上げていく。つまり、彼らには表層と内面がある。だが、クレインには表層しかない。いや、最初は確かに内面もあるが、それをどんどん失い、表層だけの存在になってしまうのだ。
クレインは、ラジオからテレビに進出して成功することによって、自分が見られ、その顔がセレブとして認知され、サインを書き、女が寄ってくることが喜び、そして存在証明となる。女漁りも、ポラロイドやビデオに記録されることによって、ただセックスするだけではなく、見たり、見せたりすることが重要になる。彼は、自分と女のセックスを見ながら、女の身体にしか関心が行かない。彼には女の内面など存在しない。なぜなら自分の内面も存在しないからだ。そんな彼の表層的な世界では、テレビやディナー・シアターの仕事と私生活の境界も崩壊していく。
では、なぜ彼は、自分の名声に傷がつく可能性のある私生活を隠そうとしなくなるのか。そのヒントは、彼と神父がダイナーで交わす会話にある。彼は神父に、テレビの収録の後でストリップ・クラブに通っていることを告白する。すると神父は、そういう話は告解室で聞こうかと尋ねるが、彼は、懺悔ではなくただの話だと応える。これは、彼の未来を暗示する一種のマニフェストになっている。告解室で密かに告白しなければならないことは罪だが、大っぴらに話したり、見せたりできることは罪ではない。それゆえ彼は、最後まで自分がいい人間だと主張しつづけるが、罪がないかわりに内面を失ってしまうのだ。
しかし、そんな彼にもひとつだけ性の欲望に対する罪の意識が残っている。同性愛である。それは、決して純粋な信仰に基づく意識ではなく、形骸化したドグマでしかないが、それでもどうにもならない。ドグマに縛られているだけだから当然、他者の同性愛的な感情など理解できるはずもなく、やがてそれが命取りとなる。そんな皮肉な運命が、表層に囚われたクレインの空虚な性と生をさらに際立たせているのだ。 |