昨年公開された『ミリオンダラー・ベイビー』で最も印象に残ったのは、ポール・ハギスの脚本だった。この脚本には、原作の短編集の人物や背景に対する鋭い洞察があり、“敬意”というテーマがさらに深く掘り下げられていた。映画のプレスには、「この映画の主役は脚本だわ」というヒラリー・スワンクのコメントがあったが、その言葉に偽りはない。
そんなハギスの初監督作品『クラッシュ』は、クリスマスも間近のロサンゼルスを舞台に、多様な人種や階層の人々が入り組む群像劇だ。そのドラマのなかにこんな台詞がある。「街中を歩けば、人と体が触れたり、ぶつかったりする。でもロスじゃ、触れ合いは皆無。人々は金属やガラスの後ろに隠れている」。この言葉は、直接的にはロサンゼルスの車社会を意味する。だからドラマは、車をめぐるエピソードを中心に展開していく。
ともに白人である地方検事のリックとその妻ジーンは、夜のウェストウッドで、アンソニーとピーターという黒人の二人組に車を強奪される。ともに黒人であるTVディレクターのキャメロンとその妻クリスティンは、人種差別主義者のベテラン警官ライアンとその相棒のハンセン巡査に車を止められ、クリスティンはライアンから耐えがたい屈辱を与えられる。だが、同じ人種の夫婦でも、夫と妻の立場は同じではない。
黒人に車を強奪されたジーンは、人種偏見を露にして騒ぎ立てるが、リックは地方検事の立場上、黒人の有権者を失いたくはない。クリスティンは、夫の不甲斐なさに憤りを覚えるが、TVディレクターの彼は、白人の上司から黒人俳優の台詞が黒人らしくないと言われれば、自分の地位を守るために撮り直しをするしかない立場にある。
車をめぐるエピソードに反映されているのは、車社会だけではない。このドラマを観ながら筆者が思い出すのは、マイク・デイヴィスの『要塞都市LA』の以下のような記述だ。
「都市改革や人種・階級融合に関してまだ残っている希望が、途方もないスケールの住居および商業上のセキュリティによってどれだけ奪われているか」「今日の金持ち向けのエセ公共空間――豪華なショッピングモール、オフィスセンター、要塞のような文化施設――は、アンダークラスの「他者」に近づかないようにと警告する見えない標識であふれかえっている」
そうした状況は、怒りや恐怖を増幅させる。ウェストウッドの強奪の場面にはそれがよく現れている。アンソニーはまさに「見えない標識」に苛立ち、二人組を見たジーンは一瞬、恐怖を覚える。彼らを隔てる溝が、強奪の発端となるのだ。
そして、様々な衝突を生み出すそんな溝とコントラストをなすのが、ハンセン巡査が車に飾る聖クリストフォロスのミニチュアだ。幼いキリストを背負って川を渡ったと伝えられるクリストフォロスは、運転手の守護聖人でもあるが、この映画では、衝突する人々が見出す触れ合いの象徴となるだけではなく、表面だけではわからない人間の心理を浮き彫りにする役割も果たす。
クリスティンに屈辱を与えたライアンは、交通事故の現場に居合わせ、車内で動けなくなっている彼女を命懸けで救出し、クリストフォロスのように背負う。一方、偏見とは無縁だったはずのハンセンは、クリストフォロスのミニチュアと関わるエピソードのなかで、不覚にも偏見に囚われ、取り返しのつかない過ちを犯してしまうのである。
ファッション・フォトグラファーとして活躍するデヴィッド・ラシャペルの初監督作品『RIZE』もまた、ロサンゼルスや人種差別と深い関わりを持つドキュメンタリーだ。映画の題材となっているのは、荒廃するインナーシティの象徴ともいえるサウス・セントラルから巻き起こったクラウン・ダンスやクランプ・ダンスのムーブメントだ。
ラシャペルの関心はダンスそのものにあり、ダンスがダイナミックにとらえられている反面、ドキュメンタリーとしては未熟な部分も多々ある。だが、未熟さがすべて欠点となっているわけではなく、そこには想像力をかき立てるような面白さがある。
この映画は65年のワッツ暴動と92年のロス暴動の映像から始まり、まずクラウン・ダンスのルーツが明らかにされる。その発端は、ロス暴動と同じ年に、過去に傷を持つ男トミー・ジョンソンが、サウス・セントラルに住む子供の誕生日を祝うために、クラウンの扮装をしてダンスを踊ったことだった。やがて彼は、ダンスの伝道師トミー・ザ・クラウンとなり、新しいダンスに熱中する若者たちが、技とセンスを競い合うようになる。
この導入部は、ずっと荒廃を続けてきたサウス・セントラルに新たなムーブメントが起こったような印象を与えるが、それは正しくない。『要塞都市LA』には、ワッツ暴動について以下のような記述がある。「なにより重要なのは、蜂起がサウスセントラル・ロサンゼルスの鋭気と統一を促し、タプスコットのアーケストラから、ワッツ・プロフェッツのラップ詩まで、幅広い、自前のブラック・アート運動を生み出したことだ」
当時は、公民権運動の盛り上がりもあって、そうしたムーブメントが生まれた。それでは、黒人の階層分化が著しい時代に起こったロス暴動の場合にも、そこから何かが生まれる可能性があるのか。そのひとつの答えがこの映画だといえる。
ラシャペルは、そんな新しいダンスをアフリカの部族の踊りと短絡的にダブらせてしまうが、映像にはそれをまったく異なる視点からとらえる余地が残されている。かつてアメリカでは、下層の白人がミンストレル・ショーを生み出し、芸人となった黒人は顔を黒塗りにして、道化を演じなければならなかった。だが、アル・ジョルスンなどは、その黒塗りのマスクによって、ユダヤ系の伝統の呪縛から解放された。
クラウンの白塗りのマスクは、その逆の役割を果たしたようにも思える。ひとたび白塗りの道化となることによって、彼らの精神と肉体は、外部から植え付けられたネガティブなイメージから解放され、激しく躍動するのだ。
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