「アメリカ軍が市街戦に臨むのは二六年前フエ市以来のことだ。フエ市の戦いは数ヵ月におよび、無数の家屋が瓦礫と化した。数百人のアメリカ兵、そして数千人のベトナム人が命を落とした。ファルージャでの戦いは厳しいものになることを、海兵隊員は知っていた。そのことを他の人たちにもわかってほしかった」
ハンクが訪れる商店や食堂では、常に大統領の声明やファルージャのニュースが流れている。ところが、彼はほとんど気にもとめず、表情も変えない。並外れた洞察力を持つ彼には、すでに戦争の実態が見えてしまっているからだ。
そうなると彼の行動の意味も変わってくる。たとえば、規律を守る姿勢だ。モーテルで洗濯していた彼は、女性刑事が現れるとまだ濡れているシャツを着る。彼は心のなかでは現実に絶望していながら、規律だけで自分を支えているように見える。
さらにもうひとつ不自然なことがある。息子の失踪を知った彼は、戦友に協力を求めようとするが、その戦友が14年も前に退役したことすら知らずにいたのはなぜなのか。彼の息子たちは、愛国心と軍人としての誇りを持つ父親に憧れ、軍人になった。だが、そんな彼は退役後、戦友と距離を置き、おそらくは現実から目を背けてきた。彼がベトナムの体験をどう考えていたのかは想像するしかない。
アメリカは湾岸戦争やイラク戦争を通して、ベトナムのトラウマを消し去り、記憶を封じ込めようとしてきた。これに対してハギスは、実話をそのまま描くのではなく、ハンクを主人公にすることで、イラク戦争の実態とベトナムを結びつけようとする。
この映画に描かれる軍や警察は、伝統とはいいがたい歪んだホモソーシャルな関係に支配されている。ハンクはそんな世界のなかで、疎外された女性刑事と信頼関係を構築することで、自分を見つめ、一つの答えにたどり着くのだ。 |