この映画では非常に緻密な構成が際立つが、それは単にパズルを解くようなスリルを生み出すためにあるわけではない。重要なのはマイケルの立場や心理だ。担当編集者の本音が物語るように、マイケルは処女作では成功を収めたが、その後は人生の言い訳を書いているだけの駄作しか生み出していない。彼はなぜスランプに陥っているのか。それはこの映画が、執筆中の彼に向かって不在の少年が「見ててね」と語りかけるところから始まることと無関係ではないだろう。彼は過去の出来事について心の整理がついていない。だから“言い訳”を書いてしまう。そして新作で同じことを繰り返せば、もう未来はない。彼はそんな瀬戸際に立たされている。
ポール・ハギスが切り拓いてきた世界には共通点がある。彼が脚本を手がけた出世作『ミリオンダラー・ベイビー』では、不遇な人生を送って30代になってしまったヒロインと老トレーナーが無謀にもプロボクシングで頂点を目指そうとする。実話に基づく監督第2作『告発のとき』では、イラク帰還兵の息子が無許可離隊することなど信じられない父親が、無残な遺体で発見された息子の死の真相に迫っていく。彼はその過程で、退役軍人としての誇りや忠誠心を捨て去り、戦争の現実と向き合うことになる。監督第3作『スリーデイズ』では、主人公の大学教授が、無実でありながら殺人罪で収監されようとしている妻を脱獄という手段で救おうとする。
ハギスは、逆境にある主人公が、固定観念や理性を捨て去り、自由や真実を求める姿を独自の視点で描き出してきた。そんな関心は、瀬戸際に立たされた作家に迫る『サード・パーソン』にも引き継がれ、これまで以上に複雑で興味深い心理が描き出される。この映画はなぜ三つの物語で構成されているのか。それは、主人公のゴールが必ずしもひとつではないからだ。
マイケルが作家として復活することを望んでいるのは間違いない。しかしそれ以前に、人間として過去を清算できなければ、その足がかりをつかむことができない。ニューヨークとローマの物語は、そんな過去の清算と無関係ではない。ジュリアが精神的に不安定で、職を転々とするのは、過去の出来事の責任を回避しようとしているからであり、もし自分の非を認めることができれば、軋轢が解消されるかもしれない。スコットがモニカに深入りするのは、過去に起因する罪悪感を背負っているからでもあり、彼女を信じることができれば、新たな人生が開けるかもしれない。
二つの物語には、人間としての救いがある。しかし、復活を強く望む作家はそれでは満たされない。パリの物語はそんな葛藤を描く場となる。そこには二人のマイケルがいる。なぜなら彼は日記のなかで自分を「彼」と表現しているからだ。ちなみに、映画のタイトル“サード・パーソン”には三人称という意味もある。その「彼」と「私」は同じではない。それは、ローマの物語と比較してみればわかるだろう。モニカは、スコットがなにも聞かずにすべてを受け入れてくれることを望む。彼女を信じるスコットはそれを受け入れる。「彼」もアンナを信じ、その想いを白い花に託す。しかし「私」はそんなに優しくはない。きっと人物のすべてを暴き出そうとするだろう。
そこで思い出されるのは、マイケルの担当編集者のこんな言葉だ。「君の処女作はすごかった。残酷で生々しく、情も恥もなかった。ゲラを読むだけで汗の出る傑作だった」。マイケルは、編集者にそんなふうに思わせる小説をもう一度、書き上げる。「彼」はアンナを愛しているが、「彼」はマイケルのすべてではない。では、「私」は誰を愛しているのだろう。それは、マイケルが新作の原稿を担当編集者の次に見せる人物に違いない。ポール・ハギスは、過去を引きずり、瀬戸際に立たされた主人公が先鋭的な作家として覚醒するまでの複雑な心理を、繊細かつ大胆に描き出している。 |