ポール・ハギスがアメリカ映画界で成功を収めるきっかけは、クリント・イーストウッド監督の『ミリオンダラー・ベイビー』(04)の脚本を手がけたことだった。F・X・トゥールの短編集『テン・カウント』を原作にしたこの脚本には、ハギスの思いや独特の人生観を見出すことができる。
1953年、カナダ・オンタリオ州生まれのハギスは、20代でハリウッドにたどり着き、テレビの世界に入ってこつこつと経験を積み重ね、脚本家としての地位を築き上げた。しかしそれはあくまでテレビ界における評価だった。彼の夢は劇映画の脚本を書き、監督することだった。そこで、世紀が変わろうとするころ、40代後半にさしかかっていた彼は、だめもとで劇映画の脚本を書き出した。それが『ミリオンダラー・ベイビー』だった。
この映画に登場するヒロイン、マギーは、13歳からずっとウェイトレスとして働き、30代になってもボクシングのトレーニングを続けている。ハギスがそんな彼女に共感を覚えても不思議はないだろう。だが、彼が作り上げたのは、スポ根ものの成功物語ではない。
努力してもどん底から抜け出せないマギーと、絶縁された娘に手紙を送り続ける老トレーナーのフランキー。彼らはボクシングによってそれぞれに見えない壁を乗り越える。そのボクシングとは単なるスポーツではない。映画のなかにこのような表現がある。「間違ったことを信じ込んでいて、それが自滅を招くことでも、それを最後まで信じ続けるのが真のボクサーだ」
本気で他者と運命を分かち合い、真理を見極めるためには、善悪や利害を忘れて、身を投げ出さなければならなくなることがある。ハギスの世界にはそんな考え方が潜んでいる。
脚本と監督という夢を叶えた『クラッシュ』(05)では、ロサンゼルスに暮らす様々な登場人物たちが、人種や階級という壁のために軋轢を生み出していく。そのなかでも特に印象に残るのが、人種に対する差別的な感情を隠さないベテラン警官ライアンと若くて真面目な巡査ハンセンのコントラストだ。彼らはともに意外な運命をたどる。
ライアンは、前夜に酷い屈辱を与えた黒人女性を事故現場から命懸けで救い出す。ハンセンはある一瞬だけ恐怖感から偏見にとらわれ、取り返しのつかない過ちを犯してしまう。自己をむき出しにしていた人間と理性で対処していた人間が、切迫した状況のなかで反射的に普段とはまったく逆の行動をとる。そこに真理が見える。 |