ホモソーシャル、ホモセクシュアル、ホモフォビア
――『リバティーン』と『ブロークバック・マウンテン』をめぐって


リバティーン/The Libertine―――――――――――― 2005年/イギリス/カラー/110分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
ブロークバック・マウンテン/Brokeback Mountain― 2005年/アメリカ/カラー/134分/ヴィスタ/ドルビーSR・SRD・DTS
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(初出:「Cut」2006年4月号 映画の境界線56)


 

 17世紀イギリスの放蕩詩人、第2代ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモットの後半生を描いた『リバティーン』。そして、アメリカの地方の因習的な社会のなかで密かに育まれるふたりのカウボーイの愛を描いた『ブロークバック・マウンテン』。この2本の映画で興味をそそられるのは、ホモソーシャル(同性間の社会的な絆)、ホモセクシュアル、ホモフォビア(同性愛嫌悪)という3つの要素の関係だ。

 『リバティーン』の物語の背景となるのは、王政復古期のイギリス。アラン・ブレイの『同性愛の社会史』やイヴ・K・セジウィックの『男同士の絆』で論じられているように、この時期には、ふたつの重要な出来事が相互に関連するように進展した。ひとつは、「ゲイのサブカルチャーが顕在化したこと」だ。王政復古によってピューリタンの倫理から解放された貴族階級は、奔放な女性関係や同性愛によって、快楽を享受するようになる。

 そしてもうひとつは、「ホモフォビアのイデオロギーが世俗化し、その結果、イギリス大衆にとって日常経験を認識し説明するのに便利なカテゴリー[ホモセクシュアル/ホモフォビア]が誕生したこと」だ。台頭するブルジョワは、貴族階級に対抗するために、生殖を中心とする異性愛という対照的な倫理を掲げ、貴族からブルジョワへの権力の譲渡とともに、ホモフォビアが社会に浸透していくことになるのだ。

 『リバティーン』の導入部は、そんな背景を踏まえてみると、興味深く思えてくる。この映画は、ジョン・ウィルモットの前口上から始まる。暗闇から現れた彼は、私たち観客にこのように語りかける。「諸君は私を好きになるまい。私はところ構わず女を抱ける。紳士諸君も嘆くことなかれ。私はそっちもいけるから気をつけろ」。この言葉は、新興ブルジョワの倫理を生み出す源となった当時の貴族のステレオタイプを表現しているように見える。

 確かにジョンはこの映画のなかで、妻を持ちながら、女優のエリザベス・バリーや娼婦と関係し、彼に憧れる美形の若者ビリーと行動をともにする。しかし、彼は決してステレオタイプではない。それは単に彼が、露骨な性表現を駆使して王政を痛烈に風刺するということではない。彼が嫌悪し、反抗するのは、排他性を生み出すホモソーシャルな連帯なのだ。

 たとえば、グレアム・グリーンが書いた伝記『ロチェスター卿の猿』に、「劇場は護国卿制時代の長い眠りから醒めた」とか「劇はもっぱら宮廷人の心を捉えた」という記述があるように、劇場は貴族階級の社交場になっていたが、そこからは、ホモソーシャルな連帯が浮かび上がってくる。貴族と女優の間には、階級の違いがあり、貴族は女優を娼婦のように物色する。

 舞台で晒し者にされた女優バリーの演技指導を申し出たジョンは、悪友の劇作家エサリッジと、彼女が一流になるかどうか賭けをする。バリーは成功を収めるが、悪友たちの間で彼女に対する認識が変わるわけではない。男たちがカードに興じる場面で、もうひとりの悪友サックヴィルは、彼女のことを淫売と呼んではばからない。ジョンは、そんなホモソーシャルな連帯から逸脱していくのだ。

 そして、そういう意味でこの映画のハイライトとなるのは、性病のために鼻が崩れ、歩行もままならなくなったジョンが、議会に現れる場面だといえる。議会では、国王チャールズU世の弟ジェームズが、カトリックであることを理由に、王位継承権を奪われかけている。その背景には、貴族や地主と新興ブルジョワとの権力闘争がある。ジョンはそんな状況のなかで、王政を擁護する演説を行ない、形成を逆転する。これまでジョンに裏切られてきた国王は、立ち去る彼に、「ついに私の役に立った」と語りかけるが、彼は、「自分のためにしたことだ」と答える。


 
―リバティーン―

◆スタッフ◆

監督   ローレンス・ダンモア
Laurence Dunmore
脚本 スティーヴン・ジェフリーズ
Stephen Jeffreys
撮影監督 アレクサンダー・メルマン
Alexander Melman
編集 ジル・ビルコック
Jill Bilcock
音楽 マイケル・ナイマン
Michael Nyman

◆キャスト◆

ロチェスター/
ジョン・ウィルモット
  ジョニー・デップ
Johnny Depp
エリザベス・バリー サマンサ・モートン
Samantha Morton
チャールズU世 ジョン・マルコヴィッチ
John Malkovich
エリザベス・マレット ロザムンド・パイク
Rosamund Pike
ジョージ・エセリッジ トム・ホランダー
Tom Hollander
サックヴィル ジョニー・ヴェガス
Johnny Vegas
ジェーン ケリー・ライリー
Kelly Reilly
ダウンズ ルパート・フレンド
Rupert Friend
(配給:メディア・スーツ)
 
 
―ブロークバック・マウンテン―


◆スタッフ◆

監督   アン・リー
Ang Lee
製作 ダイアナ・オサナ、ジェイムズ・シェイマス
Diana Osana, James Schamus
脚本 ラリー・マクマートリー、ダイアナ・オサナ
Larry McMurtry, Diana Osana
原作 アニー・プルー
E. Annie Proulx
撮影 ロドリゴ・プリエト
Rodrigo Prieto
編集 ジェラルディン・ペローニ、ディラン・ティチェナー
Geraldine Peroni, Dylan Tichenor
音楽 グスターボ・サンタオラヤ
Gustavo Santaolalla

◆キャスト◆

イニス・デル・マー   ヒース・レジャー
Heath Ledger
ジャック・ツイスト ジェイク・ギレンホール
Jake Gyllenhaal
アルマ ミシェル・ウィリアムズ
Michelle Williams
ラリーン・ニューサム アン・ハサウェイ
Anne Hathaway
ジョー・アギーレ ランディ・クエイド
Randy Quaid
キャシー リンダ・カーデリーニ
Linda Cardellini
ラショーン・マローン アンナ・ファリス
Anna Faris
(配給:ワイズポリシー)
 
 


 ジョンは、王政を擁護したのではない。前出の『男同士の絆』には、「ホモフォビアとは、特定の弾圧を少数派に加えることによって、多数派の行動を統制するメカニズムである」という記述があるが、彼は、そんな排他性を生み出すホモソーシャルな連帯に反抗したのだ。

 一方、『ブロークバック・マウンテン』ではまず、イニスとジャックという主人公の出会いを描く前半のドラマで、ホモソーシャル、ホモセクシュアル、ホモフォビアの歴史的な繋がりが、見事に覆される。西部劇の世界では、男同士のホモソーシャルな連帯が繰り返し描かれるが、そこにホモフォビアがあるために、連帯の延長にホモセクシュアルな関係が生まれることはない。

 この映画でも、二人が初めてセックスした後に、お互いに自分がホモではないことを確認し合うように、彼らの意識にはホモフォビアがあり、彼らは、ホモセクシュアルとして交わるわけではない。ブロークバック・マウンテンの山中で羊を放牧管理する仕事についた彼らは、厳しい環境のなかで当然のごとくホモソーシャルな絆を育み、その延長でごく自然に肉体の接触に至る。その連続性には、[ホモセクシュアル/ホモフォビア]というカテゴリーは存在しない。

 彼らが、ホモセクシュアルになるのは、山を降りてからだ。ワイオミングとテキサスの地元に戻った彼らは、社会に順応し、それぞれに結婚して子供を作り、家庭生活を営むようになる。だが、胸に秘めた想いは断ち切れず、密かに愛を育み続ける。アニー・プルーの原作では、主人公はあくまでふたりの男たちだったが、映画では、彼らの妻たちの存在にも光があてられる。アン・リーは、ふたりの男たち、そして同様に社会の犠牲者である妻たちの視点に立ち、ホモソーシャルの連続性がカテゴリーによって寸断されていく過程をリアルに描き出していく。

 だが、映画では、前半で印象づけられた自然とホモソーシャルな連続性の融合が、原作ほどには生かされていない。映画の男たちは、関係をカモフラージュするために、定期的に釣りに出かける。原作の彼らは、自然のなかなら連続性が取り戻せると信じているかのように、あちこちの山に登り続ける。「何年も何年も、二人は苦労して高原の牧草地や山の原流域に登り続けた。馬の背に荷を積み、ビッグホーン山脈へ、メディスンボウ山脈へ、ギャラティン山脈南端へ、アブサロカ山脈へ」

 しかし、男たちは内心ではわかっている。だから、ブロークバック・マウンテンには二度と登らないのだ。

《参照/引用文献》
『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』イヴ・K・セジウィック●
上原早苗・亀澤美由紀訳(名古屋大学出版界、2001年)
『ロチェスター卿の猿』グレアム・グリーン●
高儀進訳(中央公論社、1986年)
『ブロークバック・マウンテン』E・アニー・プルー●
米塚真治訳(集英社文庫、2006年)

(upload:2007/01/28)
 
 
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