17世紀イギリスの放蕩詩人、第2代ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモットの後半生を描いた『リバティーン』。そして、アメリカの地方の因習的な社会のなかで密かに育まれるふたりのカウボーイの愛を描いた『ブロークバック・マウンテン』。この2本の映画で興味をそそられるのは、ホモソーシャル(同性間の社会的な絆)、ホモセクシュアル、ホモフォビア(同性愛嫌悪)という3つの要素の関係だ。
『リバティーン』の物語の背景となるのは、王政復古期のイギリス。アラン・ブレイの『同性愛の社会史』やイヴ・K・セジウィックの『男同士の絆』で論じられているように、この時期には、ふたつの重要な出来事が相互に関連するように進展した。ひとつは、「ゲイのサブカルチャーが顕在化したこと」だ。王政復古によってピューリタンの倫理から解放された貴族階級は、奔放な女性関係や同性愛によって、快楽を享受するようになる。
そしてもうひとつは、「ホモフォビアのイデオロギーが世俗化し、その結果、イギリス大衆にとって日常経験を認識し説明するのに便利なカテゴリー[ホモセクシュアル/ホモフォビア]が誕生したこと」だ。台頭するブルジョワは、貴族階級に対抗するために、生殖を中心とする異性愛という対照的な倫理を掲げ、貴族からブルジョワへの権力の譲渡とともに、ホモフォビアが社会に浸透していくことになるのだ。
『リバティーン』の導入部は、そんな背景を踏まえてみると、興味深く思えてくる。この映画は、ジョン・ウィルモットの前口上から始まる。暗闇から現れた彼は、私たち観客にこのように語りかける。「諸君は私を好きになるまい。私はところ構わず女を抱ける。紳士諸君も嘆くことなかれ。私はそっちもいけるから気をつけろ」。この言葉は、新興ブルジョワの倫理を生み出す源となった当時の貴族のステレオタイプを表現しているように見える。
確かにジョンはこの映画のなかで、妻を持ちながら、女優のエリザベス・バリーや娼婦と関係し、彼に憧れる美形の若者ビリーと行動をともにする。しかし、彼は決してステレオタイプではない。それは単に彼が、露骨な性表現を駆使して王政を痛烈に風刺するということではない。彼が嫌悪し、反抗するのは、排他性を生み出すホモソーシャルな連帯なのだ。
たとえば、グレアム・グリーンが書いた伝記『ロチェスター卿の猿』に、「劇場は護国卿制時代の長い眠りから醒めた」とか「劇はもっぱら宮廷人の心を捉えた」という記述があるように、劇場は貴族階級の社交場になっていたが、そこからは、ホモソーシャルな連帯が浮かび上がってくる。貴族と女優の間には、階級の違いがあり、貴族は女優を娼婦のように物色する。
舞台で晒し者にされた女優バリーの演技指導を申し出たジョンは、悪友の劇作家エサリッジと、彼女が一流になるかどうか賭けをする。バリーは成功を収めるが、悪友たちの間で彼女に対する認識が変わるわけではない。男たちがカードに興じる場面で、もうひとりの悪友サックヴィルは、彼女のことを淫売と呼んではばからない。ジョンは、そんなホモソーシャルな連帯から逸脱していくのだ。
そして、そういう意味でこの映画のハイライトとなるのは、性病のために鼻が崩れ、歩行もままならなくなったジョンが、議会に現れる場面だといえる。議会では、国王チャールズU世の弟ジェームズが、カトリックであることを理由に、王位継承権を奪われかけている。その背景には、貴族や地主と新興ブルジョワとの権力闘争がある。ジョンはそんな状況のなかで、王政を擁護する演説を行ない、形成を逆転する。これまでジョンに裏切られてきた国王は、立ち去る彼に、「ついに私の役に立った」と語りかけるが、彼は、「自分のためにしたことだ」と答える。 |