このルイス・ファラカンについては、「ルイス・ファラカンとスパイク・リー――あるいは“ミリオン・マン・マーチ”と『ゲット・オン・ザ・バス』」で言及している。ネイション・オブ・イスラムの指導者ファラカンは、80年代の特に後半、黒人社会の二極化の進行とともに、黒人のスポークスマンとして大きな注目を浴びるようになっていた。
■■変化していくプレシャスとファラカンの距離■■
小説『プッシュ』では、主人公プレシャスとファラカンの距離の変化が、物語の重要なポイントになっている。プレシャスは、ファラカンを尊敬し、心の支えにしている。だから、2人目の子供が生まれたとき、この男の子にアブドゥル・ジャマール・ルイス・ジョーンズという名前をつける。ルイスは、ファラカンからとられている。しかし、レイン先生と出会い、彼女から様々なことを学ぶに従って少しずつ変化する。
「学校で、『カラー・パープル』よんでる。あたしには、すごいむずかしい。ミズ・レイン、やさしく説明しようとするけど、ほとんどのとこ、自分じゃ読めれない。でも、ほかのみんな、リータはべつだけど、だいたい読めれる。でも、ミズ・レインのおかげで、だんだんストーリーわかってきた。泣けた、泣けた、泣けたよ。だって、あたしとすごい似てて、ただ、あたしはセリーみたくレズじゃない。でも、そのことしゃべろうとして、“五パーセント会”やファラカン師なんかがレズのことなんて言ってるかしゃべろうとして、そしたら、ミズ・レイン、こう言った。あなたがレズビアン好きじゃないなら、わたしのことも好きじゃないのね、わたしはレズビアンだから、って。あたし、ぶったまげた。そいで、しゃべるのやめた。ファラカンの名前、出すんじゃなかった。けど、アラーやらなんやら、あたし、まだ信じてる」
プレシャスは、赤ん坊のアブドゥルに『カラー・パープル』を読んできかせる。「『カラー・パープル』は大すき。この本、あたしにいっぱい力くれる。ミズ・レイン言ってたけど、黒人の男の人の団体が、この本を映画にするの、やめさせようとしたのね。黒んぼの男たちのイメージ悪くするからって。ミズ・レインがあたしに、どう思うかってきく。イメージ悪くする? 言っちゃなんだけど、これがあんたたちのイメージだよ。もちろん、ほんもののファラカン師はべつだけど。でも、あたし、ビデオでしかあの人見たことない! 問題は麻薬じゃなくて白んぼだって言ってる! それは、あたし、さんせいだ」
そして、自分が書いた詩で市長賞を受賞したプレシャスにとって、レイン先生は家族同然の存在になっている。「ミズ・レインもレズだ。そんなふうに見えないから、あたし、今でもショックで、でも、ミズ・レインが言ったこと、おぼえてる。同性愛の人間はあたしをレイプしないし、べんきょうのじゃまもしないって。近ごろ、“五パーセント会”、ブラック・モスリムなどなど(などなどというのは、はい、はい、って意味)、すっかりわすれてる」
■■低所得の黒人家庭の女性が直面する二重、三重の疎外■■
このプレシャスとファラカンの距離については、1995年にワシントンDCで開催された“ミリオン・マン・マーチ”を思い出すと、その意味がわかりやすい。この大行進は、ファラカンの呼びかけで行われ、全米各地から黒人が結集し、大成功を収めた。しかしその後、疑問の声が上がるようになった。これまで黒人の前進に貢献してきた女性を参加させなかったこと、ゲイの黒人が参加しづらいヘテロの黒人の世界観に支配されていたこと、ファラカンの先導によって排他性を生み出す基盤ができてしまったのではないかといったことだ。
ちなみにスパイク・リーは、“ミリオン・マン・マーチ”の翌年の96年にこの出来事を題材にした『ゲット・オン・ザ・バス』を発表している。この映画は、マーチに参加するためにバスでロスからワシントンDCに向かう人々を描いたドラマだ。そのなかには、ユダヤ人の運転手やゲイのカップル、女性の二人組なども含まれている。スパイクは、立場や背景が異なる多様な人物を登場させ、自己と他者の関係を掘り下げることによって、“ミリオン・マン・マーチ”を批判的にとらえているといえる。
そして、サファイアの『プッシュ』が出版されたのも同じ96年だった。この小説も自己と他者の関係を通して、黒人対白人というような単純な図式を批判的にとらえている。80年代、低所得の黒人家庭の女性たちは、二重に疎外されていた。黒人社会の二極化によって周縁に追いやられた男性たちは、その怒りや苛立ちを女性に向けた。そういう意味では、プレシャスの母親もまた被害者であり、そんな母親に虐待されるプレシャスは三重に疎外されていることになる。
■■黒人でレズビアンでもあるサファイアが体験した疎外■■
原作者のサファイアは、80年代の後半から90年代にかけてハーレムに住み、読み書きを教えていた。この小説は、その体験をもとに書かれているといわれるが、決してそれだけではないだろう。『プッシュ』の訳者あとがきを読むと、黒人でレズビアンでもあるサファイア自身も様々な疎外を体験している。
1950年カリフォルニア生まれの彼女(本名ラモーナ・ロフトン)は、父親が陸軍の下士官だったため、各地の基地を転々として育った。その父親は家庭内では暴君で、サファイアが13歳のときに母親が家を出ていった。彼女は26歳のときに母親の居所を突き止めたが、アルコール依存症で、娘を識別できなかった。1986年にその母親が亡くなり、すぐにホームレスだった弟が公園で殺された。この時期(それは小説の時代背景とも重なるが)、知人や血縁者の死が相次ぎ、作風に影響が及んだという。『プッシュ』から浮かび上がる二重、三重の疎外や自己と他者をめぐる視点は、そんな個人的な体験と痛みから切り開かれているに違いない。
そんな小説を映画化するのは容易ではない。二重、三重の疎外を頭では理解できても、心の底から共感し、プレシャスを通して自分を語れる映像作家は限られている。小説の訳者あとがきにも以下のような文章がある。「作者のもとには、映画化の打診も来ているが、サファイアはあまり乗り気ではないようだ。お涙頂戴の映画にされてしまうのがこわいのだという」
■■黒人でゲイでもあるリー・ダニエルズが体験した疎外■■
『プレシャス』の監督リー・ダニエルズは、『プッシュ』が出版された96年にこの小説を読んだ。プレスには彼のこんなコメントがある。「しばらく他のことが手につかなかった。とても心を動かされた。多くの読者が、登場人物たちと同じ気持ちになるのを、ためらったと思う。でもどの人物も、とても現実的な存在に感じた」
おそらく彼は、小説を読みながら、プレシャスに自分を重ねていたことだろう。黒人でゲイでもあるダニエルズは、1959年にフィラデルフィアで生まれ、インナーシティの低所得者向け公営住宅で育った。
そんな彼は、アメリカのサイトのインタビューで、様々な虐待や疎外の体験を語っている。彼の父親は警官で、息子が強い男になることを望んでいた。ダニエルズは、5歳のときに母親の赤いハイヒールを履いているところを父親に見つかり、激昂した父親は、お前はゲイで何の価値もないと言い捨て、息子をゴミバケツに放り込んだ。彼は父親からよく殴られたが、母親が殴られるのを見る方がもっと辛かったという。その父親は彼が13歳のときに職務中に撃たれて死んだ。しかし、成長しても疎外は終わらなかった。黒人のコミュニティには、ホモフォビアが根深くはびこり、いつも孤立していた。
ダニエルズは、二重、三重の疎外を自ら体験してきた。映画には、ファラカンのエピソードは出てこないが、彼にはその狙いがよくわかっている。プレシャスの物語には、彼自身の痛みと覚醒が埋め込まれている。そういう意味では、これは必ずしも女性映画ではない。ダニエルズは、苛酷な現実をリアルに描き出すだけではなく、レニー・クラヴィッツの看護師やマライア・キャリーのソーシャルワーカーなどからも印象に残る演技を引き出し、様々な他者が向き合い、お互いを受け入れていく世界を作り上げているのだ。 |