まずは人種問題を追うジャーナリスト、アレックス・コトロウィッツが今年(98年)発表したノンフィクションの新作『The Other Side of the River』。
91年5月、ミシガン湖に注ぐセント・ジョーゼフ川の河口付近に黒人の少年の死体が浮いているのが発見され、このひとりの人間の死が地元の住民たちに大きな波紋を投げかけることになる。そこでは、この川を境界としてその両側でまったく違う生活が営まれていたからだ。
川の南側に位置する町セント・ジョーゼフは、人口9千人の95%が白人で、湖に面したビーチは避暑地にもなっている。一方、川を隔てて反対側にある町ベントン・ハーバーは、人口1万2千人の92%が黒人で、そのほとんどが貧困層だった。
死体で発見されたのは、ベントン・ハーバーで母親とふたりで暮らす16歳の少年エリック・マクギニス。ダンスに熱中していた彼は、その前の週の金曜日に川の向こう側の町セント・ジョーゼフにあるクラブに遊びに行き、そのまま姿を消し、母親が警察に捜索願いを出していた。
彼は殺されたのか、何らかの事故にあったのか、それとも自殺したのか。エリックの死から1年後にこの事件のことを知った著者は、それから5年間にわたってこのふたつの町を何度も訪ね、取材を繰り返し、少年に何が起こったのかを調べつづける。その記録が本書なのだ。
ベントン・ハーバーでは60年代前半までは白人が南部から移ってきた黒人とともに生活をしていた。しかし次第に新しい隣人に不安を感じるようになり、次々と川を越えてセント・ジョーゼフに移っていった。それから彼らの後を追うように新聞社、病院、YMCA、地元のFBI支局、
ついには町で一番古い教会までが川向こうへ移転してしまう。そして90年代にはふたつの町はまったく違う世界に変わっている。
セント・ジョーゼフの町ではこの43年間に殺人事件が起こったのはたったの3件で、あまりにも退屈すぎるからといってこの町で働くことを敬遠する警官もいるほどだ。一方ベントン・ハーバーにはドラッグをめぐるギャングの抗争が頻発し、この2年間だけでも殺人が20件、発砲事件が80件も起こっている。また町に暮らす家族の62%が母子家庭で、成人男子の29%が失業している。
エリックの死によってふたつの町には暴動が起こりかねない緊張が走る。ベントン・ハーバーではその1年半前に、白人警官が黒人容疑者と誤って別の黒人を射殺する事件が起こり、住民はその裁判の行方に注目しているところだった。それだけに、誰もがエリックは白人に殺されたと考えていた。
著者がエリックの周辺を調べていくと、そこからは様々な疑問や謎が浮かび上がってくる。エリックは、クラブに頻繁に通い、白人の娘たちとデートしていたため、白人の若者たちから敵視されていた。彼が姿を消した当日も白人グループに追いかけられていたという証言があるが、その後の足取りがつかめない。また彼が目抜き通りを走っていくのを非番の警官が目撃しているが、
彼は同僚に通報しただけで、なぜか後を追おうとしなかった。当夜彼が着ていたコートはどこからも発見されない。白人の警官や検察官は何かを隠しているようにも見えるが、一方には、彼が黒人同士のトラブルに巻き込まれたという説もある。
結局、本書のなかで事件の真相が明らかになることはないが、著者が5年間にわたって真相を追いかけたことによって、川を隔てたふたつの町の人々がどんな気持ちで対岸の世界を見つめているのかが鮮明に浮き彫りにされることになるのである。
もう一冊は、スパイク・リーによって映画化もされたベストセラー「クロッカーズ」を書いたリチャード・プライスの新作『Freedomland』だが、この長編は、エリックの物語を踏まえて読むといっそう興味深く思えるはずだ。
物語は、救急病院で怪我の手当を受ける白人女性ブレンダ・マーティンが、黒人の男に車を強奪され、その後部座席には病気の息子が横になっていたと訴えるところから始まる。舞台は「クロッカーズ」と同じニュージャージー州デンプシーという設定だが、事件の状況はエリックの物語に通じるものがある。デンプシーには、ダークタウンの通称で呼ばれる黒人の貧困層が暮らす地域があり、
ブルーカラーの白人が暮らすガノンという町と隣接している。ブレンダはそのガノンの住人で、事件は彼女がダークタウンからガノンに戻ろうとする途中、ふたつの町の境界にある公園で起こったのだ。
当然、事件発生と同時にふたつの町には緊張が走るが、エリックの物語と決定的に違うのは、被害者が黒人ではなく白人であり、ガノンの警察やマスコミが激しい勢いで現場に押し寄せ、一瞬にして注目の事件になってしまうことだ。その事件をめぐる物語は、ダークタウンの黒人警官ロレンゾ、地元の白人の女性記者ジェシー、そして渦中の人ブレンダを軸に展開する。ロレンゾとジェシーはそれぞれにブレンダが何かを隠していることを察知し、何とか彼女の心を開こうとする。
もうお気づきかもしれないが、この小説は冒頭でも触れたスーザン・スミスの事件がヒントになっている。しかしあくまでヒントであって、その事件の小説化といった底の浅い作品ではまったくない。筆者に言わせれば、まさにメディアがあまりにもセンセーショナルに扱うがために、そこに潜む日常的な現実を見失いかねない事件を、その捜査にあたる警官、さらに責任の一端を担うメディアの人間の視点、感情を通して冷静に掘り下げていく小説なのだ。
そして、コトロウィッツのノンフィクションからもプライスのこの長編からも決して未来に対する明るい展望が見えてくるわけではないが、筆者はこのふたつの物語に共通する二種類の絶望感というものが非常に印象に残った。
エリックの物語には、エリック本人と彼の母親の異なる絶望がある。エリックの問題の夜の足取りは最後まで明らかにならないので、彼が何をしていたのかはわからない。しかし、彼と親しかった教師によれば、姿を消す前の数日、彼は落ち着きがなく何かを思いつめている様子だったという。他にもそんな変化を裏づけるいくつかの証言があり、もし彼が何かトラブルに巻き込まれたのだとしたら、それは決して偶然ではなかったように思える。
そして彼を謎の行動に駆り立てたものは、ふたつの世界を往復する彼が背負ってしまった絶望であることを著者は非常にさり気ないかたちで暗示しているように思える。
一方、残された母親には別の意味での絶望感がある。彼女には、職場を通して町の双方に多くの知人がおり、捜査が進まない警察に対する苛立ちや怒りを胸に秘めながらも、自分が先頭に立つような暴動だけは避けようと努力する。その後も、息子が黒人同士のトラブルに巻き込まれたと確信する時期があったり、これまでの自分の行動を後悔する瞬間があるなど、真相をめぐって苦悩しつづけるのだ。
同じように『Freedomland』にもブレンダと警官ロレンゾの絶望がある。ブレンダの行動は表面的にはスーザン・スミスと同じように地獄に落ちても仕方がない愚かな行動だが、著者プライスは、彼女の背景として、幼い頃に背負ったトラウマ、家族との絆を断つことを強要するカルト・セラピー体験、ヒスパニックや黒人との複雑な関係などを克明に描き、そこに彼女を愚かな行動へと駆り立てる絶望を垣間見ることができる。一方、ロレンゾはそのブレンダによって絶望的な状況に追い込まれる。
もともと彼は、黒人コミュニティの父親的存在として慕われていたが、警察上層部やマスコミ、ガノンの白人警官、ダークシティの黒人牧師や活動家などから圧力を受けて孤立し、それでも暴動という最悪のシナリオが現実のものとなることを回避するために絶望的な闘いをつづけるのである。
黒人と白人双方のコミュニティに波紋を投じるような事件を引き起こす絶望とそんな状況を掘り下げることによって浮かび上がるもうひとつの絶望。そんなふたつの絶望が印象に残る物語には、未来に対する教訓を導きだす力が秘められているように思う。 |