サバービア、ゲーテッド・コミュニティ、刑務所
――犯罪や暴力に対する強迫観念が世界を牢獄に変えていく  文:大場正明


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(初出:『わからなくなった人のためのアメリカ学入門』2003年、若干の加筆)
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ロサンゼルス・サウスセントラルやワシントンDCのダウンタウンのように、実際に街での暴力事件が急増した場所であっても、死体の山が人種あるいは階級の境界を越えて積み上げられることは滅多にない。だがインナーシティの状況について直接肌で感じた知識を持ち合わせていない白人中産階級の想像力の中では、認識された脅威は悪魔学のレンズを通して拡大されるのだ
――マイク・デイヴィス『要塞都市LA』より

 アメリカでは第二次大戦後から50年代にかけて、激しい勢いで郊外化が進んだ。その背景には様々な要因がある。連邦政府は、戦後の深刻な住宅不足を解消するために財源を住宅政策に注ぎ込み、家が安く手に入れられるようになった。テレビという新しいメディアが急速に普及し、娯楽の中心となった。大量消費に支えられた新しいライフ・スタイルは、伝統的な価値観からの解放に繋がり、爆発的な広がりをみせた。

 急増する白人の中流は、郊外に転居することで、都市が抱える人種、犯罪、過密などの問題から逃れることができた。所有や消費が手の届くところにあるアメリカン・ドリームになることは、政府にとって、共産主義が国内に広がるのを防ぐ最も手っ取り早い方法だったし、国民も冷戦や核兵器の脅威から逃避することを求めていた。

■■大統領選の鍵を握り、アメリカを動かすサバービア■■

 そうした要因が絡み合うことによってサバービアは新たなフロンティアとなったが、それでもアメリカを動かす都市の地位が揺らぐことはなかった。しかし、いまではふたつの力関係は完全に逆転してしまっている。G・スコット・トーマスが98年に発表した『The United States of Suburbia』は、この半世紀の間にサバービアがどのようにして政治を動かすようになり、アメリカをどう変えていこうとしているのかを、詳細なデータを駆使して分析する研究書であり、郊外化が社会に及ぼす多大な影響を知る手がかりとなる。

 本書の冒頭で著者は、96年の大統領選で都市とサバービアの関係に決定的な変化が起こったと書いている。伝統的に都市のリベラルやマイノリティの支持者を基盤としてきた民主党の候補クリントンが、その都市を無視し、サバービアの有権者をターゲットにして再選を果たしたからだ。

 大統領選は、定数538の選挙人リストの過半数である270を獲得すれば勝利を収めることができるが、クリントン陣営のブレーンがコンピュータで分析したところ、その時点でサバービアの有権者が多数を占め、実権を握る州が全米で23州あり、その選挙人枠を合計すると320に達していた。つまり、そのサバービアの州を確実に押さえれば、勝利に必要な選挙人枠を獲得することができるということだ。これは、大統領を決める力が都市からサバービアに完全に移行したことを意味する。

 1940年のアメリカでは、白人の中流のほとんどは都市に集中して暮らし、都市が国家を動かしていた。ところが戦後の郊外化によって、共和党の支持基盤である白人の中流は続々とサバービアに流出していった。その結果、サバービアが実権を握る州は確実に増加し、60年には17州、選挙人枠240に達し、大統領選への影響力を持ちはじめる。

 60年に6000万人を越えたサバービアの人口は、70年には7700万、80年には8900万人へと増加し、90年には1億人を突破する。一方、都市の人口はほとんど横ばい状態で、90年には4400万人。40年と90年の人口を比較すると、サバービアではその増加率が229%であるのに対して、都市は17%にとどまっている。

 本書には、決定的な変化が起こった96年の大統領選について、印象的なエピソードが紹介されている。それは、クリントンとドールが初めて公開討論を行ったとき、両候補が取り上げた話題の内訳だ。彼らが口にした話題を頻度の高いものから順に列記すると、税金が59回、医療が26回、福祉が19回で、サバービアと深い繋がりのある話題が上位を占め、都市という言葉が出てきたのはたった三回だけだった。彼らは都市政策に関する討論を避け、まるでアメリカの大都市が一夜にして消滅したかのようだったという。

 そして実際、著者の分析は、これからのアメリカを動かしていく世代にとって、都市は存在しないに等しいものであることを物語る。ベビーブーマー以後の世代は、サバービアで生まれ、そこで学校に通い、根本的に都市というものが、人が生活する場所だという認識を持っていない。彼らは、中心のないサバービアで育ったため、中心にコントロールされることを嫌い、個人主義者として自分の生活環境をコントロールすることに強い関心を持っている。だから、都市がかつての栄光を取り戻すために税金が使われることに反対する。

■■エッジ・シティへの進化とグローバリゼーションの影響■■

 サバービアは、50年代には都市に付随するベッドタウンに過ぎなかったが、いまでは“エッジ・シティ”へと進化を遂げることによって、都市から完全に独立しようとしている。ジョエル・ガローは、新しいフロンティアとしてのエッジ・シティを分析した『Edge City: Life on the New Frontier』のなかで、既成の都市からエッジ・シティへと移行する過程を三つの段階に分けて説明している。

 まず戦後の郊外化によって住の空間が都市から分離され、次に60〜70年代にかけて日常生活における不便を解消するために、サバービアにおけるモール化が進み、最後にはついに職場が都市から分離される。職場やモールも兼ね備えたエッジ・シティは、郊外化が進む地域のなかでも、都市からより離れ、総合的で大規模な開発の余地が残され、幹線道路が交差しているような要所で発展していく。その結果、都市は産業の基盤すら失ってしまうことになる。

 
《データ》
 
『要塞都市LA』 マイク・デイヴィス●
村山敏勝・日比野啓訳(青土社、2001年)
 
“The United States of Suburbia:
How the Suburbs Took Control of America
and What They Plan to Do With It”
by G. Scott Thomas●
(Prometheus Books,1998)
 
“Edge City: Life on the New Frontier”
by Joel Garreau●
(Doubleday, 1991)
 
『ファストフードが世界を食いつくす』
エリック・シュローサー●
楡井浩一訳(草思社、2001年)
 
『ゲーテッド・コミュニティ
――米国の要塞都市』
エドワード・J・ブレークリー、
メーリー・ゲイル・スナイダー●
竹井隆人訳(集文社、2004年)
 
“The Tortilla Curtain”
by T・Coraghessan Boyle●
(Viking, 1995)
 
『殺す』 J・G・バラード●
山田順子訳 (東京創元社、1998年)
 
『グローバリズムという妄想』
ジョン・グレイ●
石塚雅彦訳(日本経済新聞社、1999年)
 
『わたしがアリスを殺した理由』
A・M・ホームズ●
高山祥子訳 (扶桑社ミステリー, 2004年)
 
『コカイン・ナイト』 J・G・バラード●
山田和子訳(新潮社、2001年)
 
『スーパー・カンヌ』 J・G・バラード●
小山太一訳(新潮社、2002年)
 
 
 
 
 

 グローバルな自由市場の浸透も、孤立する都市に追い打ちをかける。マイケル・ムーアのドキュメンタリー『ロジャー&ミー』は、それを端的に物語っている。ミシガン州フリント出身のムーアは、80年代に地元で自由市場の現実を目の当たりにする。フリントはGM(ジェネラル・モーターズ)の創設の地であり、地元の経済はその工場に支えられていた。

 ところが、GM会長ロジャー・スミスは、三万人の労働者を抱える工場を閉鎖する決定を下した。この映画のなかでムーアは、GMの経営の実態をこう説明する。GMは、地元の工場を次々と閉鎖し、人件費が安いメキシコに同数の工場を建て、その差額でハイテクや軍事関連の企業を買収し、失業者には目もくれない。その結果、フリントの産業は空洞化し、人口の流出が始まり、犯罪が増加していくことになるのだ。

 さらに、90年代前半にはアメリカ、カナダ、メキシコの間でNAFTA(北米自由貿易協定)が結ばれ、市場の統合がさらに加速している。ニック・カサヴェテスの映画『ジョンQ―最後の決断―』では、病院や保険会社から心臓移植手術を拒絶された息子の命を救うために、父親が病院に立てこもるが、このドラマもNAFTAと無縁ではない。父親は、長年勤めた工場の拠点がメキシコに移ったために、半日勤務に格下げされ、保険のランクも無断で引き下げられていたのだ。

■■メディアによって増幅される恐怖と大規模な郊外化の再現■■

 都市とサバービアの間に広がる溝は、セキュリティのことが頭から離れなくなるような強迫観念を生みだす要因となる。アメリカを動かすサバービアの住人は、都市の再生のために税金が注ぎ込まれることを望まない。産業が空洞化し、荒廃する都市では、犯罪が増加する。

 しかし、都市とのパイプを失ったサバービアの住人には、都市の現状を自分の目で確かめることなどできない。彼らが認識しているのは、あくまでメディアが伝えるインナーシティの世界である。そこで、本論の冒頭に引用したマイク・デイヴィスの文章にあるような、現実と認識のズレが起こる。

 マイケル・ムーアのドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも、この現実と認識のズレが強調されている。銃乱射事件が起こったコロラド州リトルトンは典型的なサバービアである。ムーアは、そんな世界と対比するかのように、ロサンザルスのインナーシティに足を運んで通行人と話をしたり、インナーシティの犯罪や暴力を扱うテレビ番組の製作者にインタビューし、テレビで流通しているインナーシティのイメージが現実を反映していないことを明らかにする。テレビは、視聴者の興味を引く犯罪や暴力ばかりを過剰にクローズアップしているのだ。

 しかも、リトルトンとロサンゼルスの対比には、サバービアとインナーシティをただ対比するだけではない深い意味がある。このふたつの地域の関係については、エリック・シュローサーのベストセラー『ファストフードが世界を食いつくす』に詳しく書かれている。

 コロラド州では、80年代から90年代にかけてコロラドスプリングズを中心に、50年代を再現するかのように大規模な郊外化が起こった。その住人たちは、南カリフォルニアからやってきた白人の中流だ。90年から95年にかけて移住した人の数は100万人にのぼるという。その結果、政治の地図も大きく塗り替えられる。

 カリフォルニア州では1990年代初頭に、初めて流出する人数が流入する人数を上回った。1998年には、人口に占める白人の比率がゴールドラッシュ以降初めて50パーセントを割り、民主党の基盤へと変貌を遂げることになった。これに対して、ロッキー山脈一帯の州は、かつては最もリベラルな地域だったが、膨大な数の白人中流が流れ込むことによって、南部諸州もしのぐ共和党の基盤に変貌した。

 この変化の中核をなすコロラドスプリングズは、第二次大戦で軍需産業に依存するようになり、いまも軍事関連企業によって支えられている。銃乱射事件が起こったリトルトンは、デンバー郊外にあり、コロラドスプリングズとはいくらか距離があるが、本質は同じである。『ボウリング・フォー・コロンバイン』で描かれているように、リトルトンもロッキード・マーティン社という軍事関連企業に支えられたサバービアなのだ。

 そんな背景を踏まえてみれば、事件後に、全米ライフル協会会長のチャールトン・ヘストンがデンバーにやって来て気勢を上げ、多くの人々がそれを歓迎しても不思議ではないし、マリリン・マンソンに対するヒステリックな反応が巻き起こり、コンサートが中止に追い込まれても不思議ではない。そこにはまさに、インナーシティとサバービアの溝が生みだす強迫観念があり、銃の需要に結びついているのである。=====>2ページに続く

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