■■ゲーテッド・コミュニティという要塞の登場と拡大■■
そんな強迫観念が広がることで需要が増すのは銃だけではない。エドワード・J・ブレークリーとメーリー・ゲイル・スナイダーが九八年に発表した『ゲーテッド・コミュニティ』では、アメリカに広がるゲーテッド・コミュニティ(gated community)の現状が掘り下げられている。ゲーテッド・コミュニティとは、敷地をフェンスや壁で囲い、出入口にゲートを備えた住宅地である。
85年にはまだほんの一握りに過ぎなかったゲーテッド・コミュニティは、本書が書かれる時点では、2万にも達し、300万戸以上の家族が生活していると推定されている。著者はこの変化を踏まえ、「サバービアが自動的に安全を意味する時代は終わりを告げた」と書いている。
本書では、ゲーテッド・コミュニティが大きく三つに分類されている。第一のライフスタイル型コミュニティは、最初に普及したタイプで、退職した人々やレジャーを求める家族のためのものであり、ゲートの他に、ゴルフ場やテニス・コートなどの施設を備えている。住宅地の差別化を狙ったニュータウンに近い。
第二の威信型(プレステイジ)コミュニティは、金持ちや有名人のためのもので、ゲートは彼らのステータス・シンボルになっている。このタイプには、ライフスタイル・コミュニティのようなアメニティは存在しない。
第三の保安圏型(セキュリティ・ゾーン)コミュニティは、現在急増しているタイプで、ゲートは、増加する犯罪に対して住人の安全を確保するためにある。この第三のタイプが前のふたつと大きく違うのは、前のふたつのタイプでは、開発業者が不動産価値を高めるためにゲートを設置するのに対して、業者ではなく住人たちがゲートを設置することだ。つまり、住人たちが自分たちの意思でコミュニティを要塞化し、部外者を締め出したり、出入りを制限するのだ。
ちなみに、このタイプには、サバービアだけでなく、貧しいインナーシティや公営住宅なども含まれる。そうした地域の住人たちは、現実の麻薬取引、売春、車からの銃撃などがコミュニティに広がるのを防ぎ、自分たちの地域をコントロールするために、公的な援助なども受けてゲートを設置している。
このゲートの設置については、様々な問題が指摘されているし、それがすべて機能しているわけでもない。ゲートは、コミュニティが公道を違法に占有したり、消防車や救急車の通行に支障をきたす原因となり、裁判沙汰になることもある。ゲートの運営には多大な費用がかかり、監視所つきのゲートを設置したものの、余裕がないために監視員を雇えず、ゲートが飾りになっている場合もある。敷地をフェンスや壁で囲んでも、強盗は簡単に壁を越えたり、抜け穴を見出して侵入してくるし、コミュニティのなかに暮らすティーンが、ストリート・ギャングなどの手引きをすることもある。
カーティス・ハンソンが監督した映画『8マイル』のタイトルになっている8マイル・ロードは、産業が空洞化して荒廃するデトロイトのインナーシティとサバービアを分ける境界線になっていたが、そんなふうにインナーシティに接するコミュニティでは、ゲートやバリケードの設置が人種間の対立の原因にもなりかねない。
そして本書でも、インナーシティの現実とそれを直接目にしていない人々の認識のズレが指摘されている。意外に思えるが、本書のデータによれば、全体としてみれば都市部における暴力犯罪率は、81年から89年までの間に25%下がっている。
にもかかわらず、90年代初頭の時点で、90%近くのアメリカ人が犯罪をめぐる状況は悪化していると考えていた。また、55パーセントの人々が、犯罪の犠牲者になる不安を覚え、ほぼ同数の人々が、警察による治安が不十分であると感じていた。だがそのなかで、地元で実際に彼らを悩ませている犯罪に言及したのは、わずか7、4%に過ぎなかったという。
都市を見捨てたサバービアの住人たちは、荒廃した都市が生みだし、メディアによって増幅される犯罪や暴力に怯え、異常なまでに安全に執着するようになり、ゲーテッド・コミュニティという要塞に閉じ込められていくのだ。
■■住宅地のゲート化によって分断されていく世界と人々■■
そこで今度は、強迫観念ゆえにゲーテッド・コミュニティやセキュリティにとり憑かれていく人々を扱った小説や映画に注目してみたいと思う。
T・コラゲッサン・ボイルが95年に発表した小説『The Tortilla Curtain』では、政治的にリベラルな白人中流のディレーニーとカイラ、そしてメキシコから不法入国したカンディドとアメリカという対照的な夫婦をめぐる悲喜劇を通して、不条理な世界が描きだされる。
物語は、ロサンゼルスから山間部のトパンガ・キャニオンに上っていく途中で、ディレーニーが、道路を横切ろうとしたカンディドをはねてしまうところから始まる。不法入国者であるカンディドは、病院に行けないため、朦朧としながら金を要求し、ディレーニーは咄嗟に20ドルをさしだし、彼らはそれぞれの世界に戻っていく。
ディレーニーの夫婦は、以前はロサンゼルス郊外に暮らしていたが、毎日のように紙面をにぎわすインナーシティの黒人やヒスパニック、暴行事件やカージャックなどの記事に不安を覚え、まだ自然が残るトパンガ・キャニオンへと転居した。山の上にあるその住宅地は、ゴルフ場やテニス・コート、市民文化会館などを備え、各戸の敷地面積はすべて均一、建物の建築様式や色(白とオレンジ)まで統一されている。
一方、カンディドの夫婦は、ほとんど無一文で泊まる場所もなく、しかも妻が妊娠していたため、危険を避けて人目につかない山間部で野宿をしていた。事故による彼らの遭遇は皮肉な出来事といえるが、その後も皮肉なめぐり合わせがつづいていく。
地元で不動産仲介の仕事をするカイラは、最近になってメキシコ人と思しき連中がこんな辺鄙なところにも出没し、留守宅が荒らされる事件まで起こるようになったことに不安を覚える。だが一方では、そんな連中のおかげで中流の白人家庭がロス郊外から逃避し、商売が繁盛していることをわきまえている。
カンディドは、やっとのことで仕事にありつくが、それはカイラが管理する住宅地を壁で囲う作業であり、彼はその目的など考える余裕もなく仕事に精をだす。 |