サバービア、ゲーテッド・コミュニティ、刑務所
――犯罪や暴力に対する強迫観念が世界を牢獄に変えていく  文:大場正明


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(初出:『わからなくなった人のためのアメリカ学入門』2003年、若干の加筆)
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■■ゲーテッド・コミュニティという要塞の登場と拡大■■

 そんな強迫観念が広がることで需要が増すのは銃だけではない。エドワード・J・ブレークリーとメーリー・ゲイル・スナイダーが九八年に発表した『ゲーテッド・コミュニティ』では、アメリカに広がるゲーテッド・コミュニティ(gated community)の現状が掘り下げられている。ゲーテッド・コミュニティとは、敷地をフェンスや壁で囲い、出入口にゲートを備えた住宅地である。

 85年にはまだほんの一握りに過ぎなかったゲーテッド・コミュニティは、本書が書かれる時点では、2万にも達し、300万戸以上の家族が生活していると推定されている。著者はこの変化を踏まえ、「サバービアが自動的に安全を意味する時代は終わりを告げた」と書いている。

 本書では、ゲーテッド・コミュニティが大きく三つに分類されている。第一のライフスタイル型コミュニティは、最初に普及したタイプで、退職した人々やレジャーを求める家族のためのものであり、ゲートの他に、ゴルフ場やテニス・コートなどの施設を備えている。住宅地の差別化を狙ったニュータウンに近い。

 第二の威信型(プレステイジ)コミュニティは、金持ちや有名人のためのもので、ゲートは彼らのステータス・シンボルになっている。このタイプには、ライフスタイル・コミュニティのようなアメニティは存在しない。

 第三の保安圏型(セキュリティ・ゾーン)コミュニティは、現在急増しているタイプで、ゲートは、増加する犯罪に対して住人の安全を確保するためにある。この第三のタイプが前のふたつと大きく違うのは、前のふたつのタイプでは、開発業者が不動産価値を高めるためにゲートを設置するのに対して、業者ではなく住人たちがゲートを設置することだ。つまり、住人たちが自分たちの意思でコミュニティを要塞化し、部外者を締め出したり、出入りを制限するのだ。

 ちなみに、このタイプには、サバービアだけでなく、貧しいインナーシティや公営住宅なども含まれる。そうした地域の住人たちは、現実の麻薬取引、売春、車からの銃撃などがコミュニティに広がるのを防ぎ、自分たちの地域をコントロールするために、公的な援助なども受けてゲートを設置している。

 このゲートの設置については、様々な問題が指摘されているし、それがすべて機能しているわけでもない。ゲートは、コミュニティが公道を違法に占有したり、消防車や救急車の通行に支障をきたす原因となり、裁判沙汰になることもある。ゲートの運営には多大な費用がかかり、監視所つきのゲートを設置したものの、余裕がないために監視員を雇えず、ゲートが飾りになっている場合もある。敷地をフェンスや壁で囲んでも、強盗は簡単に壁を越えたり、抜け穴を見出して侵入してくるし、コミュニティのなかに暮らすティーンが、ストリート・ギャングなどの手引きをすることもある。

 カーティス・ハンソンが監督した映画『8マイル』のタイトルになっている8マイル・ロードは、産業が空洞化して荒廃するデトロイトのインナーシティとサバービアを分ける境界線になっていたが、そんなふうにインナーシティに接するコミュニティでは、ゲートやバリケードの設置が人種間の対立の原因にもなりかねない。

 そして本書でも、インナーシティの現実とそれを直接目にしていない人々の認識のズレが指摘されている。意外に思えるが、本書のデータによれば、全体としてみれば都市部における暴力犯罪率は、81年から89年までの間に25%下がっている。

 にもかかわらず、90年代初頭の時点で、90%近くのアメリカ人が犯罪をめぐる状況は悪化していると考えていた。また、55パーセントの人々が、犯罪の犠牲者になる不安を覚え、ほぼ同数の人々が、警察による治安が不十分であると感じていた。だがそのなかで、地元で実際に彼らを悩ませている犯罪に言及したのは、わずか7、4%に過ぎなかったという。

 都市を見捨てたサバービアの住人たちは、荒廃した都市が生みだし、メディアによって増幅される犯罪や暴力に怯え、異常なまでに安全に執着するようになり、ゲーテッド・コミュニティという要塞に閉じ込められていくのだ。

■■住宅地のゲート化によって分断されていく世界と人々■■

 そこで今度は、強迫観念ゆえにゲーテッド・コミュニティやセキュリティにとり憑かれていく人々を扱った小説や映画に注目してみたいと思う。

 T・コラゲッサン・ボイルが95年に発表した小説『The Tortilla Curtain』では、政治的にリベラルな白人中流のディレーニーとカイラ、そしてメキシコから不法入国したカンディドとアメリカという対照的な夫婦をめぐる悲喜劇を通して、不条理な世界が描きだされる。

 物語は、ロサンゼルスから山間部のトパンガ・キャニオンに上っていく途中で、ディレーニーが、道路を横切ろうとしたカンディドをはねてしまうところから始まる。不法入国者であるカンディドは、病院に行けないため、朦朧としながら金を要求し、ディレーニーは咄嗟に20ドルをさしだし、彼らはそれぞれの世界に戻っていく。

 ディレーニーの夫婦は、以前はロサンゼルス郊外に暮らしていたが、毎日のように紙面をにぎわすインナーシティの黒人やヒスパニック、暴行事件やカージャックなどの記事に不安を覚え、まだ自然が残るトパンガ・キャニオンへと転居した。山の上にあるその住宅地は、ゴルフ場やテニス・コート、市民文化会館などを備え、各戸の敷地面積はすべて均一、建物の建築様式や色(白とオレンジ)まで統一されている。

 一方、カンディドの夫婦は、ほとんど無一文で泊まる場所もなく、しかも妻が妊娠していたため、危険を避けて人目につかない山間部で野宿をしていた。事故による彼らの遭遇は皮肉な出来事といえるが、その後も皮肉なめぐり合わせがつづいていく。

 地元で不動産仲介の仕事をするカイラは、最近になってメキシコ人と思しき連中がこんな辺鄙なところにも出没し、留守宅が荒らされる事件まで起こるようになったことに不安を覚える。だが一方では、そんな連中のおかげで中流の白人家庭がロス郊外から逃避し、商売が繁盛していることをわきまえている。

 カンディドは、やっとのことで仕事にありつくが、それはカイラが管理する住宅地を壁で囲う作業であり、彼はその目的など考える余裕もなく仕事に精をだす。

 
《データ》
 
『要塞都市LA』 マイク・デイヴィス●
村山敏勝・日比野啓訳(青土社、2001年)
 
“The United States of Suburbia:
How the Suburbs Took Control of America
and What They Plan to Do With It”
by G. Scott Thomas●
(Prometheus Books,1998)
 
“Edge City: Life on the New Frontier”
by Joel Garreau●
(Doubleday, 1991)
 
『ファストフードが世界を食いつくす』
エリック・シュローサー●
楡井浩一訳(草思社、2001年)
 
『ゲーテッド・コミュニティ
――米国の要塞都市』
エドワード・J・ブレークリー、
メーリー・ゲイル・スナイダー●
竹井隆人訳(集文社、2004年)
 
“The Tortilla Curtain”
by T・Coraghessan Boyle●
(Viking, 1995)
 
『殺す』 J・G・バラード●
山田順子訳 (東京創元社、1998年)
 
『グローバリズムという妄想』
ジョン・グレイ●
石塚雅彦訳(日本経済新聞社、1999年)
 
『わたしがアリスを殺した理由』
A・M・ホームズ●
高山祥子訳 (扶桑社ミステリー, 2004年)
 
『コカイン・ナイト』 J・G・バラード●
山田和子訳(新潮社、2001年)
 
『スーパー・カンヌ』 J・G・バラード●
小山太一訳(新潮社、2002年)
 
 
 
 
 
 

 ネイチャー・ライターであるディレーニーは、自然と直接触れ合う生活に満足していたが、コミュニティのゲート化が決まったことから葛藤を強いられる。リベラルなヒューマニストを自認する彼は、孤立を恐れて反対の気持ちを押し隠し、人間をふたつに分け、自然も遠ざけるゲートと壁のなかに取り込まれていくのだ。

■■「認識された脅威は悪魔学のレンズを通して拡大される」■■

 トッド・ヘインズが95年に監督した映画『SAFE』の題材は、化学物質過敏症であり、ドラマではこの病気によって追い詰められていく主婦の姿が描きだされる。しかし、87年という時代とロサンゼルス郊外のサン・フェルナンド・ヴァレー、そのなかでも奥まったアッパー・ミドルのエリアという設定からは、異なるテーマが見えてくる。

 レーガン政権のもとで、貧富の差は拡大し、貧しいマイノリティが取り残されたインナーシティは荒廃し、周辺地域をじわじわと侵蝕していく。サン・フェルナンド・ヴァレーは、戦後いち早く郊外化が進み、新しいアメリカン・ドリームの象徴となったが、荒廃も早く80年代には最も離婚率が高く、ティーンのギャングが徘徊し、インナーシティから流れ込むマイノリティのギャングとトラブルを巻き起こす場所となっていた。そこで富める者たちは、さらなる安全を求めてヴァレーの奥へと逃避し、豪華な屋敷と生活で防備を固めている。それがヒロインの生活だ。

 この映画では、インナーシティの描写があるわけではないし、具体的に言及されるのもわずか一度に過ぎない。夕食の席で彼女の息子が、学校の課題でインナーシティのギャングのことを書いたと話すのだ。すると彼女は怯えた表情を見せる。

 しかし、他の場面からもインナーシティの影響を垣間見ることはできる。眠れない彼女が庭に出て、夜風にあたっていると、見回りの警官から異常がないか声をかけられる。彼女はそのことによって、むしろ落ち着かない気持ちになる。マイク・デイヴィスが言うように、「認識された脅威は悪魔学のレンズを通して拡大されるのだ

 すると、彼女を守っているはずの物質的な豊かさが牙をむき、彼女は発病する。ヘインズの世界では、病気をめぐってしばしば正常と異常の転倒が起こるが、それを踏まえるならこの発病は正常な反応であり、自分を発見する機会ともなる。

 しかし、彼女がコミューンに逃げ込む道を選んだとき、機会は失われる。安全にとり憑かれた彼女は、現実を直視するよりも、むしろ病気を受け入れて、逃避することを選ぶ。そして自分を見失い、病気の意味は再び転倒するのだ。

■■「<愛情と保護>という名のもとの独裁的管理体制」への反抗■■

 J・G・バラードが88年に発表した小説『殺す』は、ゲーテッド・コミュニティにいち早く注目し、その病理に鋭く迫っている。舞台は、アメリカではなく、イギリスのロンドン西部にあるパングボーン・ヴィレッジと呼ばれる高級住宅地だが、この物語はアメリカを映しだす鏡にもなっている。

 イギリスは80年代にサッチャー政権のもとで自由市場に突き進み、貧富の差の拡大や犯罪の増加なども含めて社会全般がアメリカ化した。舞台となる住宅地については、80年代に規制撤廃された農地に建設された多くの高級住宅地のなかで、最も新しく最も高級という説明があり、変貌した社会の象徴と見ることができる。

 パングボーン・ヴィレッジは、監視所つきのゲートを備え、敷地全体は電気警報機のついたフェンスで囲われ、警備犬とガードマンが定時パトロールを行っていた。敷地内に入れるのは面会予約者に限られ、敷地内の小道やドライブウェイはテレビカメラで監視されていた。

 つまり、住人たちが独立を目指すゲーテッド・コミュニティの動きを先取りした住宅地だった。そんな警戒厳重な要塞で、88年の6月に、住人である32人の大人全員が殺害され、13人の子供が誘拐される。

 捜査は難航を極める。そこで応援に駆りだされた語り手の精神分析医は、現場を検証しながらこう語る。「ここでは安全が第一だった。住人たちはそれに取り憑かれていたようだね」。やがて、行方不明になっていた子供たちのなかで最年少の少女が発見され、彼女を診断した分析医は、子供たちが結束し、犯行に及んだことを確信する。

 彼らの家庭には、性的虐待や体罰などがあったわけではない。彼らは、「<愛情と保護>という名のもとの独裁的管理体制」に反抗したのだ。この小説は、その愛情や保護を象徴する防犯システムに包囲される異様な感覚をリアルに描きだすことで、圧倒的な説得力を生みだしているのだ。====>3ページに続く

 
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