サバービア、ゲーテッド・コミュニティ、刑務所
――犯罪や暴力に対する強迫観念が世界を牢獄に変えていく  文:大場正明


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(初出:『わからなくなった人のためのアメリカ学入門』2003年、若干の加筆)
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■■失業者と産業の空洞化が行き着く先は刑務所■■

 ここで話を再び現実の世界に戻すが、このようなゲーテッド・コミュニティとともに、現代を象徴するものとして、もうひとつ注目すべきものがある。それは刑務所だ。たとえば、マイク・デイヴィスの『要塞都市LA』には、ロサンゼルスの刑務所についてこんな記述がある。

刑務所および郡拘置所局のような部局は、無数の民間警備会社と同様、一九七〇年代および一九八〇年代初頭の工場閉鎖と産業空洞化のあおりをうけたイーストロサンゼルスにおいてコミュニティ最大の雇用者になっているのだ

 こうした傾向は、浸透する自由市場のもとでさらに加速する。自由市場は、最低限の秩序の維持を刑罰法規にゆだねることで、社会に最大限の放任状態を生みだそうとするからだ。アメリカの市場主義経済は、極端な言い方をすれば、そこに犯罪すら織り込んでいる。

 ジョン・グレイが98年に発表した『グローバリズムという妄想』のなかにあるこんな言葉は、それを端的に物語っている。「もしアメリカの刑罰政策が他の西欧諸国のそれと同じようなものであれば求職者になっているだろう百万人もが、アメリカでは刑務所に入っているのである

 工場閉鎖や産業の空洞化のなかで、刑務所が一大産業として発展していく。それは、ムーアの『ロジャー&ミー』でも明らかだ。GMを解雇された失業者たちにとって再就職の道は厳しい。フリントの街は、自動車産業の歴史にまつわるテーマパークを作り、地域の活性化をはかるが、思うように客を集めることができず、無惨な失敗に終わる。

 追い詰められた失業者と産業の空洞化の行き着く先は、まさに刑務所である。フリントにも新しい刑務所が建設され、GMは失業者たちに刑務所の看守の仕事を斡旋し、そこには彼らの仲間たちが送り込まれてくるのだ。

■■サバービアと刑務所に共通するメンタリティ■■

 サバービアと刑務所は、時代の象徴として深く結びついている。A・M・ホームズが96年に発表した小説『わたしがアリスを殺した理由』では、非常にユニークな設定を通して、ふたつの環境に共通するメンタリティが掘り下げられている。

 この物語は、殺人罪ですでに23年間服役している小児性愛者の囚人とサバービアに暮らす19歳の女子大生との手紙のやりとりを軸に構成されている。彼女は、誰も知らない自分の秘密を囚人に打ち明けることにスリルや快感を覚え、囚人もそんな挑発に刺激されて妄想を膨らませていく。

 そして、ふたつの世界の距離が次第に曖昧になっていく。たとえば、囚人はふたつの世界の関係をこのように表現する。

わたしはあなたを、あなたの家の垣根、花壇、ヒイラギの藪、目覚まし時計の音で測られるあなたの人生、車の相乗りの当番を思う。自分だって囚人同然だというが、自分の決断や欲望の無力さに不安を覚えるまでは、あなたは自由だ

わたしがいいたいのは、かくもたくさんのわたしたちが閉じこめられていたら、犯罪がなくなってもいいのではないかということだ。なお起こるとしたら、それはあなたであってわたしではないという意味だ。(中略)安全を確保すること、信じること、愛と理解を得ることがむずかしくなればなるほど、だまし、嘘をつき、盗み、さらには殺しさえする資格があり、許され、奨励されていると感じるだろう。今、そう感じはじめたばかりだというのであれば、あなたは長いこと幸運だったというだけだ

 刑務所とサバービアは対極の世界に見えながら、共通する閉塞感のなかで、抑圧された欲望と現実が激しくせめぎあっているのだ。

■■テクノロジーを駆使した要塞に翻弄されていく人々■■

 放任状態を生む自由市場とセキュリティに対するパラノイア的な需要によって、サバービアと刑務所はそれぞれに要塞化されていく。それは、人間が自由よりも、テクノロジーによる監視やコントロールを優先することを意味する。そこからは、メンタリティとは異なる次元で、もうひとつのヴィジョンが浮かび上がってくる。

 たとえば、バラードの『殺す』のなかにあるこんな表現はそのヒントになるだろう。「生者にも、そして死者にも、壁の内側の出来事にも無関心なパングボーン・ヴィレッジは、こののちも保ちこたえるだろう」。つまり、住人は自分たちを守るために要塞を築くが、要塞自体には人間を守る意思などなく、住人が自滅しても、何事もなかったように稼動しつづける。

 ジョン・グレイは『グローバリズムという妄想』のなかで、そのヴィジョンをこのような表現に集約している。「自分たちが逃れてきた社会の危険から高い壁と電子警備装置に守られて居住者が暮らす警護門つきの民間高級団地は、アメリカの刑務所をちょうど逆さまに映すようなものである。それらは、かつては機能する社会を支えた社会的制度――家族、隣近所、さらには企業さえ――が空洞化してしまったことを象徴している。ハイテクを駆使した刑務所、壁に囲まれた高級団地、実体のないバーチャル企業の組み合わせは、二十一世紀初頭のアメリカのしるしとして認識されるかもしれない

 
《データ》
 
『要塞都市LA』 マイク・デイヴィス●
村山敏勝・日比野啓訳(青土社、2001年)
 
“The United States of Suburbia:
How the Suburbs Took Control of America
and What They Plan to Do With It”
by G. Scott Thomas●
(Prometheus Books,1998)
 
“Edge City: Life on the New Frontier”
by Joel Garreau●
(Doubleday, 1991)
 
『ファストフードが世界を食いつくす』
エリック・シュローサー●
楡井浩一訳(草思社、2001年)
 
『ゲーテッド・コミュニティ
――米国の要塞都市』
エドワード・J・ブレークリー、
メーリー・ゲイル・スナイダー●
竹井隆人訳(集文社、2004年)
 
“The Tortilla Curtain”
by T・Coraghessan Boyle●
(Viking, 1995)
 
『殺す』 J・G・バラード●
山田順子訳 (東京創元社、1998年)
 
『グローバリズムという妄想』
ジョン・グレイ●
石塚雅彦訳(日本経済新聞社、1999年)
 
『わたしがアリスを殺した理由』
A・M・ホームズ●
高山祥子訳 (扶桑社ミステリー, 2004年)
 
『コカイン・ナイト』 J・G・バラード●
山田和子訳(新潮社、2001年)
 
『スーパー・カンヌ』 J・G・バラード●
小山太一訳(新潮社、2002年)
 
 
 
 
 
 

 人間は相互の繋がりの基盤を失い、ふたつの種類に分けられ、ハイテク化された要塞に閉じ込められている。しかし、テクノロジーは彼らを支配しているわけでもない。ただ、人間の存在が意味を失うほど圧倒的な力を備えているだけだ。

 ヴィンチェンゾ・ナタリの『CUBE』は、そんなことを踏まえると、より興味深く思える映画だ。登場人物たちは、理由もわからずに、至るところに罠を張り巡らせたハイテク建造物“CUBE”のなかに押し込まれ、サバイバルを強いられる。CUBEには、彼らに対する悪意など微塵もない。ただ数学的な規則に基づいて稼動し、そのなかで人が次々と死んでいくのである。

 また、デイヴィッド・フィンチャーの『パニック・ルーム』では、登場人物たちが、強迫観念の産物である緊急避難用シェルター=パニック・ルームの内と外に分かれ、死闘を繰り広げる。この映画で見逃せないのは、最初にシェルターを求め、設置した所有者がすでにこの世にないということだ。まずシェルターがあり、それを望んだわけでもない新しい住人がそれを稼動させることによって、無関係な人間同士の間に無意味な対立が生まれるのである。

■■バラードが切り拓く悪夢のヴィジョンが現実に変わるとき■■

 そして最後にもう一度、J・G・バラードの世界に目を向け、『コカイン・ナイト』と『スーパー・カンヌ』という最近の小説を取り上げてみたい。彼は、サバービアの未来に強い関心を持ち、これらの小説で、ポスト・サバービアともいうべき最先端の人工的な楽園を舞台に、犯罪の概念すら揺らぐような、異様でありながら極めてリアルな世界を作り上げているからだ。

 『コカイン・ナイト』の舞台となる地中海沿岸の高級住宅地は、傍目には平穏そのものに見えるが、実際には盗難やレイプなどたくさんの犯罪が起こっている。だが、住人は誰も警察に通報しようとはしない。なぜなら、その犯罪こそが町に活気をもたらしているからだ。かつてこの町は生気を失っていたが、邪悪なカリスマが現れ、犯罪によって真のコミュニティに生まれ変わったのだ。

 ゲートや監視カメラに守られた楽園には、過去も未来もなく、退屈が人々を支配する。政治や宗教はすでに求心力を失っている。そんな状況のなかで人々の精神をかき立てるものは、もはや犯罪しかない。かつての退屈な住宅地では、精神科医が司祭の役割を果たしていたが、生まれ変わった町では、精神異常者が新たな司祭となるのだ。

 そして、最先端のビジネスパークを舞台にした『スーパー・カンヌ』では、精神科医がいまだに司祭の立場にあるものの、彼が患者に処方するのは狂気である。このビジネスパークでは、狂気は病気の原因ではなく治療法であり、エリートたちはスポーツのように暴力を行使することによって、健康と活力を得ている。

 この二本の小説には、ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』と興味深い接点がある。ムーアが突撃取材するチャールトン・ヘストンやマリリン・マンソンは、精神科医にかわって、暴力やグロテスクな欲望によってコミュニティを活性化する精神異常者、新たな司祭のオーラを放っている。

 また、ムーアは、銃乱射事件の加害者の若者たちがボウリング部に所属し、事件の前にボウリングを楽しんでいたことに注目し、なぜマンソンのようにボウリングも批判されないのかという疑問を提起する。バラードの『スーパー・カンヌ』では、この事件が会話に出てくるだけでなく、精神科医の患者たちが狂気を処方され、治療のために暴力を振るうときに、全員レザーのボウリング・ジャケットを着用している。となると、ムーアの言葉はもはや、皮肉や屁理屈で片づけるわけにはいかなくなってくる。

 都市とサバービアの間にある深い溝は、救いのない悪循環を生みだし、安全にとり憑かれた人々は堅固な要塞のなかで、自分で自分の首を絞めている。そんな底なしの泥沼が、バラードの悪夢のヴィジョンをいままさに現実に変えようとしているのだ。


(upload:2010/09/29)
 
 
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