筆者はこの皮肉な状況を観ながら、イギリスの作家J・G・バラードの『殺す』のことを思い出していた。この小説の舞台となる最も新しい高級住宅地パングボーン・ヴィレッジは、監視所つきのゲートを備え、敷地全体は電気警報機のついたフェンスで囲われ、警備犬とガードマンが定時パトロールを行っていた。これは絶対のセキュリティといってよいだろう。ところが、この警戒厳重な要塞で、住人である32人の大人全員が殺害され、13人の子供が誘拐される。
しかし、ここで筆者が注目したいのは、事件の詳細や真相のことではなく、事件によって所有者を失った建造物のことだ。難航する捜査の応援に駆り出された語り手の精神分析医は、現場の警察ビデオを観たあとでこんなことを考える。
「(前略)あの死の日以降も、パングボーン・ヴィレッジはいまでも超然と残っているということに気づき、わたしはショックを受けた。成功した職業人であり、中産階級の上位に属する人々の住居のファサードこそが、そこに住んでいた人々の、もっとも堅固で永久的な実体であるかのように、残っている。そのエレガントな家々の所有者たちは、建築物に最小の損傷を与えただけで、すばやく命を奪われてしまったというのに。
生者にも、そして死者にも、壁の内側の出来事にも、無関心なパングボーン・ヴィレッジは、こののちも保(も)ちこたえるだろう。わたしがいま負わされている、一見不可能な任務がかたづき、この大量殺人と子女誘拐の事件が解決されれば、あの静かな居間を満たすために、新たな住人が募集されるだろう。ホワイトホール地下の映写室を出て、ホワイトホール街の車のひしめく、夕暮れの喧騒のなかに足を踏みだしながら、その新しい住人たちのことを思うと、どういうわけか、わたしはかすかな身震いを覚えた」
所有者を失っても絶対のセキュリティは残り、新しい住人に思いもよらない影響を及ぼすかもしれない。『パニック・ルーム』では、無関係の母子と侵入者たちが、パニック・ルームの力によってお互いに現代的な牢獄にとらわれ、身動きがとれなくなる。侵入者たちの立場には、ケヴィン・スペイシーが監督した『アルビノ・アリゲーター』を連想させるものがある。あの映画では、客を人質に地下のバーに立てこもった三人の強盗が、唯一の出口から脱出するために結束を乱し、意外な結末に至る。この映画の男たちは、唯一の出入口から密室に入るために結束を乱し、泥沼に引き込まれていく。
ジュニアはギャンブル中毒で経済的に追いつめられているとはいえ、大富豪の遺族だけあって本当に切迫するということをまだ知らず、それほど金に執着していない。だから計画を放棄しようとさえする。しかし、彼が引き連れてきた凶暴なラウールが、隠し財産の価値を知ったとき、ジュニアは屋敷から出られなくなる。
バーナムの立場はもっと複雑だ。家族に見捨てられかけている彼は間違いなく切迫している。そばには是が非でも金を奪おうとする凶暴な男がいる。しかしそれだけではない。目の前のパニック・ルームを設計し、それを開くために計画に加わった彼には、自分の創造物に対する奇妙な執着が生まれる。彼は、それを設計したときには、まさか自分がそのモニターに映し出されることになるとは思ってもみなかったはずだ。そんな彼の姿は悲しげでもあり、またパニック・ルームから排除されることへの耐えがたい思いもあるに違いない。
この映画のラストでは、自己と他者を隔てるパニック・ルームはもう存在しないが、そこには見えない壁があるように思える。解放されたメグとサラが、揺るぎないアッパーミドル・クラスの余裕を漂わせているからだ。 |