主人公のニコラスは富と権力を手にした実業家で、仕事を除くと俗事には背を向け、人を寄せ付けない生活を送っている。48歳の誕生日を迎えた彼は、疎遠になっている弟から"CRS"の文字が印刷されたカードをプレゼントされる。そのCRS社は参加者各自に相応しい"ゲーム"を提供する企業であることがわかる。ニコラスは半信半疑で入会の手続きをするがそこから悪夢が始まる。彼は現実とゲームの境界線が消失する信じがたい世界のなかですべてを失い、大罪と死の瀬戸際へと追いつめられていく。
このゲームとは一体何なのか? ニコラスに用意されたゲームが始まる前にそれを示唆する印象的な場面がある。彼は会員制のスポーツ・クラブでこのゲームの体験談を語り合う二人組を見かけ、彼らにそれがどんなものであったのかを尋ねる。するとひとりが「私は盲目であったが今は見える」とだけ答える。
ヨハネの福音書のなかにあるこの言葉と映画の展開を対比してみると、ある意味で挑発的ともいえる問いかけが見えてくる。盲人の話では、パリサイ人たちがイエスによって癒された盲人に対して、彼が罪人によって癒されたこと咎める。するとこの盲人は、自分を癒した人が罪人かどうかはわからないが、以前は盲目であったものがいまは見えると答える。
映画でこの言葉を引用する人物は、CRS社のゲームによって癒されたということになる。このCRSは映画のなかで、"消費者娯楽サービス"の略称という設定になっているが、三つの文字には別の意味が埋め込まれている。それはキリスト(CHRIST)である。そこでもう一度盲人の話を映画に当てはめてみるとどうなるか。消費者娯楽サービスなどという企業に癒されることは、罪人に癒されることに等しいといえるかもしれない。しかし、ゲームで超越的な瞬間を体験し、心の目が開いた盲人にとってそれは揺るぎない宗教になる。現代の宗教にそんな一面が隠れていることは誰も否定できないだろう。
ちなみに、来日したフィンチャーに、CRSとキリストの繋がりについて尋ねてみると、こんな答が返ってきた。「それは偶然だよ。でも確かにアメリカのキリスト教保守派からは反発があった。しかも偶然だと説明したら、もっと馬鹿にしているということになって(笑)」。もちろん、これが本当は偶然ではなかったとしても、彼がすんなり認めるはずはない。ただ何といっても、『エイリアン3』に80年代アメリカの現実を埋め込んでしまう監督だけに、やはり確信犯と見るのが自然だろう。 |