ゴーン・ガール / ギリアン・フリン
Gone Girl / Gillian Flynn (2012)


2013年/中谷友紀子訳/小学館文庫
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(初出:)

 

 

どうしようもないほどに徹底した非独創的社会のなかで
リアルさを再び感じるためならどんなことでもすると彼は言う

 

 『冥闇』に続くギリアン・フリンの新作『ゴーン・ガール』の主人公は、ともに30代のニックとエイミーという夫婦だ。ふたりは5年前にニューヨークで出会い、夫婦になった。ニックは雑誌のライターで、エイミーは女性誌向けのクイズを作る仕事をしていた。ところが、経済危機や電子書籍の隆盛によって、夫婦はともに仕事を失ってしまう。

 そこで2年前、ふたりはニックの故郷であるミズーリ州の町カーセッジに転居した。ニックの父親がアルツハイマー病に冒されているという事情もあった。しかし、都会育ちのエイミーにとって、田舎の生活は退屈きわまりないものだった。そして迎えた結婚5周年の日、エイミーが突然、謎の失踪を遂げる。家には争った形跡や血痕があり、確かなアリバイのない夫ニックに嫌疑がかけられる。

 但し、これは前半部分を簡単にまとめた記述であって、独特の構成で綴られる物語には伏線らしきものが散りばめられている。前半では、ニックとエイミーそれぞれの視点の物語が交互に綴られる。

 エイミーの物語は日記だ。それは当然、失踪以前の時間を扱っている。ふたりの出会いから、失踪直前に至る5年間の出来事や彼女の変化の断片が浮かび上がる。一方、ニックの物語は、妻の失踪直後から始まる。地元警察による捜査が始まり、ニックに不利な状況証拠が浮かび上がってくる。

 だが、夫婦の物語でありながら、それぞれの物語のトーンはかみ合わない。どこかに嘘が紛れ込んでいるように感じられる。そして、後半に入ると、失踪の真相が明らかになる。だが、それだけでは物語は終わらない。予期せぬ出来事によって、前半の物語を支えていた土台が崩れ、主人公たちの関係が想像を絶するような変化を遂げることになる。

 しかし、この小説の魅力は、二転三転する展開だけではない。前作の『冥闇』では、80年代の農家の苦境が重要な背景になっていた。ほぼ現代を扱っているといえる新作で、時代を象徴しているのは“デッドモール”だ。

 ミシガン出身のバンド、フロンティア・ラッカスが2010年にリリースした『Deadmalls & Nightfalls』には、地元のWaterford Townshipにあったショッピングモール、Summit Place Mallの写真が使われていた。このモールは1963年に誕生し、2009年にその長い歴史に幕をおろした。ジャケットになっているのは、もう人のいないデッドモールの写真であり、このバンドはそれを時代の象徴として使っている。

 フリンもこの小説で、デッドモールを細かく描写している。長い引用になるが、著者のこだわりがあらわれている部分なので、省略はしない(文中に出てくるマーゴは、ニックの双子の妹である)。

一年前まで、カーセッジは<リバーウェイ・モール>という広大なショッピングモールに支えられた企業城下町だった。小さな町の人口の五分の一にあたる四千人もの人間がそこで雇用されていた。中西部全域からの集客をあてこんだ大規模モールとして、一九八五年に建設された。開店日のことはいまもよく覚えている。ぼくとマーゴ、母と父の四人で、だだっ広いコールタール舗装の駐車場に立ち、人だかりのいちばん後からにぎわいを眺めていた。どこかへ出かけると、父が決まって早めに帰りたがるからだ。野球の試合だえ、いつも出口のそばに陣取り、八回になると席を立った。マスタードまみれになり、日差しで身体をほてらせたぼくとマーゴは、いつも最後まで見せてもらえないと不満たらたらだった。でもこのときばかりは遠くから見ていて正解だった。開店イベントの全容を眺めることができたからだ。もどかしげに一歩ずつ前に進んでいく見物客たち。赤・白・青に彩られた演壇に立つ町長。消費主義という名の戦場のなか、ビニール張りの小切手帳とキルトのハンドバッグとで武装した兵士のぼくたちに、威勢のいい言葉が投げかけられた――誇り、成長、繁栄、成功。やがて扉が開いた。店内になだれこむと、エアコンの空気と、BGMと、にこやかに笑う店員たちに迎えられた。みな町の住人だった。その日ばかりは、父も店内に入り、行列に並ぶのを許してくれ、べたついたカップにたっぷり注がれたオレンジ・スムージーまで買ってくれた。

 それから四半世紀、<リバーウェイ・モール>はあたりまえのようにそこにあった。やがて不況が襲い、モール内の店舗がひとつずつ消えていき、ついにモール全体が閉鎖された。いまでは十八万平米の廃墟と化している。再建に名乗りをあげる企業も、復活を約束する実業家も現れていない。モールをどうすべきか、大勢の元従業員たちがどうなるか、誰もわからずにいる。母も店舗のひとつの<シュー・ビー・ドゥー・ビー>靴店で働いていたひとりで、二十年ものあいだその店でひざまずき、揉み手をし、箱を選りわけ、汗ばんだ靴下を触らされてきたにもかかわらず、あっけなく職を失った


 
◆おもな登場人物◆
 
ニック・ダン   バーの経営者で元ライター、ノースカーセッジ短期大学の講師
エイミー・エリオット・ダン ニックの妻、童話『アメージング・エイミー』のモデル
マーゴ ニックの双子の妹、バーの共同経営者
モーリーン ニックの母
ビル ニックの父
メアリーベス エイミーの母
ランド エイミーの父
ノエル・ホーソーン エイミーの友人
ヒラリー・ハンディ エイミーの友人
デジー・コリングス エイミーの友人
ロンダ・ボニー ノースカーセッジ警察の刑事
ジム・ギルピン ノースカーセッジ警察の刑事
タナー・ボルト 弁護士

◆著者プロフィール◆

ギリアン・フリン
米国ミズーリ州カンザスシティ生まれ。現在はシカゴに在住。カンザス大学卒業後、ノースウエスタン大学でジャーナリズムの修士号を取得。『KIZU―傷―』(SHARP OBJECTS)で作家デビュー。第二作目『冥闇』(DARK PLACES)ではスティーヴン・キングなどに激賞され、CWA賞最優秀スパイ・冒険・スリラー賞にノミネートされる。

 
 

 実は筆者がこの小説のなかでいちばん注目したいのは、この文章の少しあとの「経済の破綻はぼくの精神状態とも完璧にマッチしていた」に続く文章なのだが、とりあえずここでは、デッドモールとニックの精神が共鳴しているということを頭に入れて、小説のもうひとつのポイントに話を進めたい。

 この小説で切り拓かれるある種、異様ともいえる世界のヒントになっているのは、前作『冥闇』にさり気なく盛り込まれていた虚偽記憶症候群やサタニック・パニックだと思われる。詳しいことは『冥闇』レビューを参照していただければと思うが、簡単にいえば、子供に対する性的虐待が疑われたときに、専門家が子供を誘導して証言を引き出し、悪魔崇拝にまでエスカレートし、それらがすべて事実として受け入れられてしまうような事件だ。

 明らかにフリンは、虚構が事実として受け入れられていくような状況に強い関心を持ち、この小説では、それを独自の視点と構成で掘り下げている。エイミーは子供の頃から、親が生み出した童話『アメージング・エイミー』のモデルにされ、虚構と事実がすり替わるのを身をもって体験し、事実を捩じ曲げる術を身につけてもいる。

 この小説では、そんなエイミーのリアルと経済の破綻にマッチするようなニックの精神状況がどこまでも絡み合い、壮絶な結末に至る。ということで、先述したいちばん注目したい部分を引用する。

ここ数年、ぼくは退屈しきっていた。それは落ち着きのない子どもが訴えるような退屈さではなく(それからも卒業しきれてはいないが)、もっと重苦しい、全身を覆うような倦怠感だった。なにを見ても目新しさを覚えられずにいた。ぼくらはどうしようもないほどに徹底した非独創的社会に住んでいる(非独創的という言葉を批判的に使うこと自体が非独創的だが)。いまのぼくたちは、初めて目にするものがなにもないという、史上初の人類となった。どんな世界の驚異も無感動な冷めた目で眺めるしかない。モナ・リザ、ピラミッド、エンパイア・ステート・ビル。牙をむくジャングルの動物たちも、太古の氷山の崩壊も、火山の噴火も。なにかすごいものを目にしても、映画やテレビでは見たことがある、と思わずにはいられない。あるいはむかつくコマーシャルで。「もう見たよ」とうんざりした顔でつぶやくしかない。なにもかも見尽くしてしまっただけでなく、脳天を撃ち抜いてしまいたくなるほど最悪なのは、そういう間接的な経験のほうが決まって印象的だということだ。鮮明な映像に、絶好の眺め。カメラアングルとサウンドトラックによってかき立てられる興奮には、もはや本物のほうが太刀打ちできない。いまやぼくらは現実の人間なのかどうかさえ定かではない。テレビや映画や、いまならインターネットとともに育ったせいで、誰も彼もが似通っている。裏切られたとき、愛する者が死んだとき、言うべきセリフはすでに決まっている。色男やら切れ者やらまぬけやらを演じるためのセリフだって決まっている。誰もが同じ使い古された台本を使っている。

 自動販売機で売られている無数の性格の寄せ集めではなく、リアルな本物の人間でいるというそれだけのことが、ひどく難しい時代なのだ。

 そして誰もが演技しているだけだとすると、ソウルメイトなどという代物は存在しないことになる。本物の魂など持ちあわせていないのだから。

 自分も他人もリアルな人間ではないわけだから、なにもかもどうでもいい。ぼくはそう思うようにさえなっていた。

 リアルさをふたたび感じられるなら、どんなことでもしただろう

 果たしてデヴィッド・フィンチャーが、このような精神状態にどのように反応するのか、楽しみである。なぜなら、『ファイト・クラブ』の主人公の精神状態に通じるものがあるようにも思えるからだ。


(upload:2014/01/16)
 
 
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