■■外部ではなく、内面に存在する殺人鬼――『ゾディアック』■■
挑戦的な犯行声明や暗号文によって、捜査陣や記者を翻弄した実在の連続殺人犯ゾディアック。デヴィッド・フィンチャー監督の『ゾディアック』には、この連続殺人犯を追ったがゆえに、人生を狂わせていく男たちの姿が描き出される。事件に関わった刑事や記者が脱落していくなか、最後まで追い続けるのは、風刺漫画家のグレイスミス。事件が未解決に終わった時、彼は本を書く目的で捜査にのめり込み、家族から見放されていく。
そのグレイスミスが書いたの本を原作にしたこの映画からは、過去のフィンチャー作品に通じる構図が浮かび上がってくる。『エイリアン3』では、主人公リプリーの体内にエイリアンの幼生が埋め込まれることによって、外的な闘争が内的な葛藤に変わる。『セブン』では、凶悪犯によって主人公の刑事の内面に大罪≠ニいう罠が仕掛けられ、刑事はラストで壮絶な葛藤を強いられる。『ファイト・クラブ』では、主人公ジャックに見えているものは現実ではなく、彼は内面に敵を抱え込んでいる。
フィンチャーの作品では、外部に存在するはずの敵が、ウイルスやメディアのように主人公の内部や内面に入り込み、主人公は内なる敵に追い詰められていく。『ゾディアック』も例外ではない。グレイスミスにとって、ゾディアックは外部に存在する連続殺人鬼から、彼の内部に存在するつかみどころのない敵へと変化していく。その敵は、彼の内面、そして彼が書く本のなかでどこまでも増殖していくのだ。
■■作家の全能性と主人公の意思――『主人公は僕だった』■■
マーク・フォスター監督のファンタジックなコメディ『主人公は僕だった』では、国税庁に勤め、まるで機械のように同じ毎日を繰り返すハロルドの頭のなかに、ある日突然、彼の行動を文学的な表現で描写する女性のナレーションが入り込んでくる。やがて彼は、自分がある作家が執筆中の小説の主人公であり、その結末に死が待ち受けていることを知る。
果たして彼は小説の結末を書き換えることができるのか。その鍵を握るのは、「このささいな行為が死を招くことを、彼は知るよしもなかった」というナレーションだ。ハロルドの助言者となる文学の教授は、ナレーションの三人称の表現を分析し、その作家が“全能者”の立場にあると指摘する。つまり、作家はハロルドの知らないことまですべてお見通しで、彼の人生を完全に支配している。だから運命を変えることはできない。
ところが、最後にハロルドがある決断をするとき、意外な結末が訪れる。同じ結末ではあっても、そこに作家から独立した主人公の意思が介在すれば、作家の全能者としての立場は揺らぐことになる。
■■日記と現実の狭間で――『あるスキャンダルの覚え書き』■■
リチャード・エアー監督の『あるスキャンダルの覚え書き』の主人公は、ロンドン郊外にある中学校のベテラン教師バーバラ。独善的な性格ゆえに周囲から疎まれる彼女にとって、心の支えになっているのは日記だ。しかし、彼女は、日記を綴ることによって孤独を慰めるのではなく、他人を自分の物語に引き込もうとする。
彼女は、どこか不安定なところがある新任教師シーバに目をつけ、巧みに接近し、急速に親しくなっていく。そして、彼女のことを日記に書き綴り、関係に進展があったと感じると金星のシールを貼る。そのシーバが教え子と不倫していることを嗅ぎつけた時には、一方的な思い込みでいい気になっていた自分の甘さにほぞをかむが、恩を売ることで彼女を支配しようとする。
しかし、バーバラがシーバを最も必要とした時に、彼女が友情よりも家族を選んだことが引き金となり、スキャンダルが巻き起こる。
■■依存し合う姉妹――『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』■■
そんな孤独や自意識、強迫観念、妄想をさらに大胆に掘り下げているのが、吉田大八監督の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』だ。この映画では、外界から隔離されたような北陸の田舎町を舞台に、姉妹が壮絶な駆け引きを展開する。
物語は、事故で死亡した両親の葬式の日に、女優を目指して上京していた姉が4年ぶりに舞い戻るところから始まる。彼女は女王のように兄嫁を顎で使い、そして妹を徹底的にいびる。事の発端は四年前に遡る。
上京に反対された彼女は、逆上して父親にナイフで切りつけようとして、止めに入った兄を傷つけてしまう。上京を諦め切れない彼女は、同級生相手の売春で資金を捻出しようとする。ところが漫画家に憧れる妹が、姉の痴態の一部始終を漫画にして投稿し、新人賞受賞作として雑誌に掲載され、すべてが町中に知れ渡ることになってしまったのだ。
そういう事情であれば姉の恨みもわからないではないが、彼女たちの関係はそれほど単純なものではない。実は姉は、極端に自己中心的な性格が災いして事務所を解雇され、取立て屋にも追われている。にもかかわらず、都合の悪いことはすべて妹のせいにする。責任を転嫁するために妹を必要としているのだ。
一方、執拗ないびりに耐える妹の姿は哀れだが、彼女は、姉が傲慢で邪悪になればなるほど創作意欲をかき立てられていく。つまり彼女たちは、相互に依存しているのだ。
■■奇術師は人生もトリックに変える――『プレステージ』■■
一方、クリストファー・ノーラン監督の『プレステージ』では、19世紀末のロンドンを舞台に、ロバート・アンジャーとアルフレッド・ボーデンという優れた奇術師たちが、壮絶な駆け引きを展開する。
すべての発端は、ふたりの修行時代に遡る。彼らの師の助手だったアンジャーの妻が、水中脱出に失敗して溺死する事故が起こる。彼女の手をロープで結んだのはボーデンだった。それ以来、彼らは因縁のライバルとなり、熾烈な競争を繰り広げる。そして、そんな彼らを虜にしていくのが、奇術師が一瞬のうちに離れた場所に移動する「瞬間移動」のマジックだ。彼らはそれを極めるために、人生を狂わせていく。
この映画は、複数の時間が交錯する上に、観客を惑わす仕掛けが散りばめられている。その仕掛けのひとつが日記だ。アンジャーは、トリックを探るためにボーデンから盗んだ日記を読み進み、アンジャーを溺死させた罪で投獄されたボーデンは、死者から届けられた日記を読み進む。だが、奇術師がトリックを使うのは舞台だけではない。秘密を守るためなら、人生そのものをトリックに変えてしまう。驚愕のラストは、複製技術が台頭した19世紀後半の社会の変化を象徴し、時代の分岐点を鮮やかに浮き彫りにしているのだ。 |