ヴィンターベアが精神科医から手渡されたのは、この虚偽記憶症候群の資料だ。しかし、彼が関心を持ったのは、おそらく個別の症例ではなくその背景だ。療法の背景にはフェミニズムの台頭、女性が虐げられてきた立場から本当に解放されるためには、これまで抑圧することで消し去った記憶を再生しなければならないというイデオロギーがある。
それが、セラピストがある種の兆候を見出したときに、短絡的に過去の性的虐待と結びつける要因になった。その兆候は、暗闇に対する恐怖、悪夢、依存症、自殺願望、うつ状態、罪悪感、あるいは夏でもたくさん服を着込むというようなことまで細かく分類されていた。
『偽りなき者』の少女クララもささいな兆候から調査員に誘導され、偽の記憶を押しつけられてしまう。しかし、この映画で注目しなければならないのはそんな細部ではない。ヴィンターベアはジェンダーをめぐる社会の変化が鮮明になるような設定を実に巧妙に作り上げている。最初に印象に残るのは、町の男たちが属する猟友会の活動だ。彼らは鹿を狩り、酒を酌み交わし、肉の処理の分担を決める。それはこの町に残る伝統、家父長制的な秩序を象徴している。そして、猟友会と対置されているのが幼稚園だ。そこでは、園長も職員もすべて女性で占められている。
ルーカスはもともと小学校の教師で、小学校が閉鎖され失業したために、(おそらくは例外的に)幼稚園に職を得ることになった。つまり、本来ならそこにいないはずの人間なのだ。さらにもうひとつ見逃せないのが、クララの父親テオの子供に対する態度だ。明らかに彼は息子を優遇し、娘は部屋に閉じこもっていればいいと考えている。だからクララは、父親の親友ルーカスをもうひとりの父親のように慕い、結果として偽の記憶を引き金にイデオロギーが暴走する遠因となる。
ヴィンターベアは、明らかにこのコミュニティの変化を社会の縮図ととらえている。家父長制の不平等が正されるべきであるとしても、それに変わるコミュニティの基盤を創造することもなく、先走るイデオロギーが外部からの権力の介入を招けばどうなるのか。ヴィンターベアはそれを、スキンシップ≠通して表現している。
映画は男たちの裸の付き合いの描写から始まる。幼稚園でもルーカスと子供たちがじゃれ合う姿が印象的に残る(但し、それを許されているのは男の子だけのように見える)。しかし、話し合うために現れたルーカスを見るなり、血相を変えて逃げ出す園長の姿が端的に物語るように、スキンシップは恐れと疑いに変わる。コミュニティは、もはや個人の顔が見えず、なにを考えているのかわからない不可視の集団に変わる。そして、闇にまぎれて陰湿な攻撃を仕掛けてくるようになる。
この映画のラストには、そんなヴィンターベアの視点が見事に集約されている。ルーカスは、破滅に追いやられかけたにもかかわらず、スキンシップを貫いている。しかし一方で彼は、不可視のものが生み出す突発的な暴力を目の当たりにする。私たちは他者を信じ、触れ合おうとするのか、それともすべてを制度に委ね、不可視の世界を怯えながら生きるのか。そんな疑問が頭をよぎるとき、またこの映画を思い出すことになるだろう。 |