集団のなかで、心の傷やコンプレックスを抱えた個人は明確な意思にもとづいて行動するとは限らない。集団のなかの様々な要因や関係に左右され、自己を制御 できなくなるかもしれない。ヴィンターベアは、そんなどちらにころぶかわからないような、人間の心理の曖昧さを巧みに描き出してきた。
それは彼がコミューンで生まれ育ったことと無関係ではないだろう。かつて筆者がインタビューしたとき、彼は『セレブレーション』に描き出される集団心理について以下のように語っていた。
「ぼくはこの心理ゲームを楽しんでいた。人間が見せる不条理な行動というのは、ぼくの映画のテーマのひとつになっている。自慢するわけではないけど、ぼく は人の心理を読むことが得意だ。それは一軒の家に12人の人間が暮らすような共同体で育ったからかもしれない。 子供のころのぼくは、大人の争いをとても怖れていて、彼らの行動や心理を観察するようになった。そのおかげで、顔は笑っていてもいつ争いが起こるか予測す ることができるようになった。人間というのは、まずい話を聞いて表面的には悲しげな表情を浮かべていても、中身は違う。もっと無責任で不条理なものなん だ」
『光のほうへ』にも、負の連鎖を断ち切ろうとして逆に深みにはまっていくというような心理は描き出されている。しかし、それはほとんど個人に内面に限られている。
たとえば、兄はかつてアナという女性と生活し、彼女は妊娠もしたが、結局中絶して彼のもとを去った。弟は2年前に妻を交通事故で亡くし、ひとりで息子を育 てることになった。そうした事実は示唆されるが、子どもを欲しがっていた兄とアナの関係がなぜ破綻をきたしたのか、弟の妻がなぜ事故に遭い、彼がいつどの ように麻薬に依存するようになったのかは、私たちの想像に委ねられている。
ヴィンターベアの本領が発揮されるのは、本来ならその想像に委ねられている部分だろう。そこには人間が見せる不条理な行動が見えてくるはずだからだ。 |