トマス・ヴィンターベア・インタビュー 01
Interview with Thomas Vinterberg 01


1999年 渋谷
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(初出:「キネマ旬報」1999年7月下旬号)

ドグマ95の意味と可能性
――『セレブレーション』(1998)

■■ドグマの出発点と戦略家トリアー■■

 ラース・フォン・トリアーを中心とする監督集団ドグマ95のなかで、トリアーの最初の賛同者となり、ドグマの記念すべき第1弾作品『セレブレーション』を監督することになったのが、69年生まれの新鋭トマス・ヴィンターベアだ。彼はトリアーとの出会いとドグマの出発点についてこう語る。

「始まりはトリアーのアシスタントから連絡をもらったことだ。それでトリアーに会い、ドグマの理念を聞いたとたんにすぐに引き込まれた。ふたりで大笑いしながら三十分もしないうちに十戒の規約を作ってしまった。 もちろん笑いながらも大切なことを決めているということはわかっていた。他の仲間については、自分たちが尊敬できる監督で、これまでお金がかかる作品を作り、撮影に様々な機材を使っている監督を選んだ。彼らはすぐに賛同し、仲間になってくれたよ」

 ヴィンターベアはトリアーに協力してドグマの基礎を作ったわけだが、ふたりにとってドグマが意味するものはまったく違うという。

「ぼくらの性格はまったく正反対なんだ。それがよくわかるエピソードを話そう。トリアーは、今回の映画(『イディオッツ』)の最初のリハーサルのとき、素っ裸になってスタッフ、キャストを出迎えた。 そんなふうにして正反対の自分を周囲に見せるんだけど、頭のなかでは誰がどこに座り、何をするかまで決めていて、彼らを完璧にコントロールする。一方ぼくは、いつもきちっとした身なりでそういう席に臨むけど、2分もすると頭は混乱状態に陥ってる。 つまり、トリアーにすればドグマは周到で明確な戦略に基づいている。しかしぼくにすれば、たまたまトリアーと出合ったことで、型にはまった映画作りを打開する閃きを与えられたということなんだ」

■■人間が見せる不条理な行動への関心■■

 このコメントは『セレブレーション』という映画について考えるうえでも興味深い。彼は、ドグマの制約を逆手にとる緻密な脚本を準備し、複雑な群像劇を作りあげている。主人公は、富豪である父親の還暦を祝う宴の席で、父親による性的虐待という醜悪で苦痛に満ちた家族の過去を暴露する。 それは座が一瞬ざわめく程度の出来事に見えたが、集団のなかに蠢く感情が次第に主人公の行為に呼応していく。複雑に絡みだした感情は、宴の席を閉塞的な空気で包み込み、どこまでも真実を求めつづけ、祝宴は別な儀式へと変貌する。

「この映画の登場人物からは、表面的な行動と本音むき出しの行動が見えてくる。ぼくは、最初は俳優たちのエネルギーをほとんど隠すということに使わせた。彼らは怒りや愛を押さえ込み、最後に反対にエネルギーを使って、すべてを外に出してしまう。最初には秘密があり、最後にはそれが贖罪へと結びつくんだ。 この映画では、ぼく自身も最初はドグマの規約によって押さえ込まれていた。しかしそのおかげで突破口を見出すと、そこから大きく道が開け、突き進むことができたんだ」


◆プロフィール◆

トマス・ヴィンターベア
1969年生まれ。93年デンマーク国立映画学校を卒業。卒業制作の『最後の勝負』(Last Round)がミュンヘンの国際学生映画祭で審査員賞とプロデューサー賞を受賞、テルアビブの映画祭でも受賞、 94年にはアカデミー賞にもノミネートされた。同年、彼はDRTVで初のテレビドラマと、短編映画『あとずさりする少年』(The Boy Who Walked Backwards)を作った。この映画は、アイスランドのノルディック・パノラマ、クレモン・フェラン国際短編映画蔡、 トロント映画祭を含む世界中の映画祭で様々な賞に輝いた。96年、初の長編映画『偉大なるヒーローたち』(The Great Heroes)を完成。この映画の脚本は、前作と同様、ボー・ハンセンとの共同執筆によるものである。
(『セレブレーション』プレスより引用)

 


 この映画では、事情を知らない客たちが閉塞的な空気から逃れようと、黒人の客をスケープゴートにしたり、酔いにまかせて奇行を繰り広げるといった集団心理の鋭い描写が際立っている。そこには監督の個人的な体験が反映されているようだ。

「ぼくはこの心理ゲームを楽しんでいた。人間が見せる不条理な行動というのは、ぼくの映画のテーマのひとつになっている。自慢するわけではないけど、ぼくは人の心理を読むことが得意だ。それは一軒の家に12人の人間が暮らすような共同体で育ったからかもしれない。 子供のころのぼくは、大人の争いをとても怖れていて、彼らの行動や心理を観察するようになった。そのおかげで、顔は笑っていてもいつ争いが起こるか予測することができるようになった。人間というのは、まずい話を聞いて表面的には悲しげな表情を浮かべていても、中身は違う。もっと無責任で不条理なものなんだ」

 ヴィンターベアはこの映画の撮影でヴィデオ・カメラも使っているが、それはどのような事情によるものなのだろうか。

「根本的には金銭的な理由だ。ドグマには35ミリに限るという規約があるけど、それは最終的なフォーマットだからね。ヴィデオだと、35ミリで2テイクしか撮れないところを10テイク撮れる。正直なところ最初はガッカリしたんだけど、結果的にはヴィデオの質感が気に入るようになったし、 カメラが小さいことが映画にとても役立った。俳優がカメラの存在を忘れて演技できたし、ホーム・ムーヴィー風の雰囲気も出せたから」

■■ドグマの未来に対する危惧■■

 ドグマは世界中に映画に対する見直しを迫るグローバルな魅力があると同時に、ドグマに挑戦する様々な国の監督たちが自分のバックグラウンドを掘り下げられる可能性も秘めているように思えるのだが、彼はドグマの未来をどのように見ているのだろうか。

「ぼくは、国民性やバックグラウンドというものが見えてくることを望んでいる。実を言うと日本に来てちょっとガッカリしたところがあったんだ。日本には素晴らしい文化と伝統があって、それはぼくたちが尊敬すべきものだったんだけど、実際に来てみるといたるところにマクドナルドがあって、 世界的な均質化が日本でも同じように進行していることがわかった。だから、このささやかな運動が世界各国の他の一面を引きだすきっかけになれば、そんな誇らしいことはない。
 一方で、ぼくはドグマの未来を少し危惧している。ドグマは革新的な運動として始められたにもかかわらず、よく知られるようになればなるほど、コマーシャリズムに近いものになっている。『MIFUNE』には高額の値がついて、ブルジョワジーのなかに取り込まれつつある。デンマークでは女王ですらドグマを口にする。 つまり、受け入れられるほど革新的ではなくなっていく。だからここらでもう一度、ドグマの理念というものを出発点に戻って確認しなければいけないと思っているんだ」


(upload:2001/02/04)
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