――エレクトリック・パークを取り巻く建物は、西部劇の世界のようにも見えますし、ドラマにも西部劇とイメージがダブる場面があります。西部劇の要素については、どのように考えていますか。
「この映画をジャンル分けするのはとても難しいと思いますが、ぼくはモダン・ウエスタンと呼んだりもしていました。ぼくはペキンパーが大好きで、彼は素晴らしい映画を作りますが、おそらくとても意地悪で、他人には優しくない人物だろうと想像がつきます。この映画は、そのペキンパーの『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』やキューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』などを想起させるのではないかと思います。おっしゃるようにセットにも西部劇の匂いがありますね」
――アメリカに行くことができないラースは、たとえばカフカの『アメリカ』といった小説や映画、音楽などにインスパイアされて、彼の内なるアメリカを描き出します。あなたは、アメリカに行くこともできるわけですが、アメリカに対するあなたとラースの距離感や視点の違いをどのように考えていますか。
「素晴らしい芸術を作るにあたって、それを必ずしも体験する必要はありません。たとえば、癌で死ぬ人間を描くのに癌になる必要はない。『セレブレーション』ではブルジョアの家族や幼児虐待を描いてますが、ぼくは、ブルジョアの雰囲気もぜんぜん知らなければ、虐待もまったく受けずに育った。それでも、好奇心や憧れ、そして入念なリサーチによって描くことができます。ぼくもラースもデンマークで育ったわけですが、デンマークはアメリカのサバービアといっても過言ではない。ぼくたちは、コカコーラやバスケットボールなど、アメリカ文化を吸収しながら育った世代なのです。アメリカは西洋社会のフロンティアといってもいいでしょう。
とはいうものの、ラースは実際にアメリカには行っていないので、いくつか誤解というものがあります。たとえば、このエレクトリック・パークといった広場の形式というのは、アメリカの都市にはほとんどない。駐車場のような空間ならありますが。あれはヨーロッパのものなんです。だからそれがわかってない。それから、アメリカ人は自分を皮肉の対象にして笑いをとるということをほとんどしない。それは彼らがたいへん誇り高いからです。ヨーロッパ人、特にイギリス人とかは、頻繁に皮肉を込めて自分や相手のことを話します。ですから、皮肉というのはとてもヨーロッパ的なものであって、アメリカ人はなかなか使いこなせない。それをラースはいまいちわかっていない。だから今回ぼくが大変だったのは、世界でいちばん横柄で気位の高い監督と誇りの高いアメリカ人たちの間で仲介役になることでした。そこからいろんな大きな問題が生じて、とても苦労しました」
――『セレブレーション』では、昼と夜、光と闇のコントラストが際立っていましたが、『ディア・ウェンディ』でも、光と闇が大きな役割を果たしています。ダンディーズは、独自のルールを作り、銃を使うのは廃坑の闇のなかに限定されています。あなたは、光と闇のふたつの世界をどのように認識していますか。
「ぼくは基本的に闇というのはすごく抑圧的なものだと思っていますが、この映画の若者たちにとっては、ファンタジーの世界、とても安全な場所です。そこにいれば、灰色の現実から逃れることができる。自分自身が支配者になり、完璧な団結と自由が約束されている。彼らは、自分たちだけが清く正しい平和主義者だと信じ、銃を太陽の光に晒してはならないと考える。他の人々は銃を見るに値しない。見れば悪いことに使ってしまうから。しかし彼らは最終的に銃を光に晒してしまう。闇から出て光を浴びる瞬間に、目覚めよといいますが、そこには意味深いシンボリズムが隠されていると思います」
――セバスチャンは、ディックの純粋さが生み出した闇の世界に現実を持ち込んだり、あるいは、ダンディーズを闇から現実の世界に引き出す役割を果たします。特に、セバスチャンが、孤立するディックに対して、外に出られないクララベルの話を持ち出したり、ディックの関心を保安官の銃に向けさせる場面では、ディックの心理を操っているところがあります。あなたは、このセバスチャンのキャラクターをどのように解釈していますか。
「これはラースの深層に潜む欲望だと思うのですが、彼は常に自分の作品に政治的に正しくないこと、賛否両論を呼ぶようなことをあえて盛り込もうとするのです。この脚本もそうです。具体的には、ディックとセバスチャンというまったく対照的なキャラクターのことです。ひとりは、ヨーロッパの白人独特の雰囲気を持ち、なんでも頭で考え、理詰めで物事を進めようとする。儀式にも頼って自分が凄い人間になったという気持ちになるタイプです。もうひとりは、自分を守るためには手を血で汚すこともいとわない実行するタイプです。女の話ばかりしていて手を出さない男ではなく、話などせずにすぐ手を出す男。実際に戦争があればすぐに参戦する。参戦せずに戦争論を語る男ではない。血と肉でできている人間ですね。
今回ラースは、そういう人間をあえて黒人にしてしまった。だから賛否両論を呼ぶと思います。それは彼にとっては無邪気な憧れであったり、ジェラシーだと思います。彼はそういう実行力をともなった人間に憧れを持っていると思う。ヨーロッパ全体がそうかもしれない。もしディックをラースだとすれば、彼がいわんとすることははっきりすると思います。彼は理詰めでしか生きられない。旅行もできなければ、パーティにも行かない。自分の人生を楽しむこともないし、女性を誘うことなど絶対にないでしょう。あるいは、もっと広い視野でとらえるなら、ヨーロッパ対アメリカと解釈することもできるでしょう」 |