トマス・ヴィンターベア・インタビュー02
Interview with Thomas Vinterberg02


2005年
ディア・ウェンディ/Dear Wendy――2005年/デンマーク=フランス=ドイツ=イギリス/カラー/105分/ヴィスタ/ドルビーデジタル
line
(初出:「CDジャーナル」2006年1月号、加筆)

孤立する若者たちの通過儀礼、あるいはヨーロッパ対アメリカ
――『ディア・ウェンディ』(2005)

 

 “ドグマ95”の中核を担ったラース・フォン・トリアーが脚本を書き、トマス・ヴィンターベアが監督した『ディア・ウェンディ』は、主人公の若者ディックが、手紙を通してウェンディに語りかけるモノローグから始まる。だが、そのウェンディは、女性でも人間でもない。炭鉱で働かなければ男ではないという不文律がある南部の田舎町で、負け犬として生きるディックは、後にウェンディと名付ける銃と出会い、彼女と一体になることで一人前の男になる。彼は、町の負け犬たちを集め、銃で結ばれた平和主義者の集団“ダンディーズ”を結成する。

――あなたが監督した『セレブレーション』と『ディア・ウェンディ』には、集団心理を描いているという共通点があります。あなたはコミューンで生まれ育ったということですが、その体験はあなたの映画に影響を及ぼしていると思いますか。

「70年代のスカンディナビア諸国では、コミューンはとてもポピュラーなものでした。デンマーク、スウェーデン、ノルウェーにもそれがありましたが、特にデンマークが多かったと思います。通常は一軒の大きな家に4、5家族、多い場合には6家族が、台所やリビングを共有して、ある程度プライバシーを保ちながら共同で暮らします。とても賑やかな生活でした。コミューンでの体験は、とても大きな影響を及ぼしています。ぼくにとっては出発点であり、ぼくの映画がすべて集団のポートレイトになっているのは、そんな体験があったからだと思います。
 子供の頃から人間の行動に興味を持ち、観察し、自分から率先して人物について知ろうとするようになりました。コミューンでは、すごく楽しいことも、悲しいことや困ったこともみんなで共有します。そこには団結心がありました。他人の子供でも自分の子供のような優しさで受け入れてくれました。今でも一緒に暮らしていた人たちとは連絡を取り合っています。その反面、1年半から2年に一回はコミューンのなかで戦争が起こり、半分以上の家族が出て行ってしまうということが繰り返されていました。だから、優しい面も、醜く争う面も見ていました」

――両親の選択によってコミューンで生きることになったわけですが、そういう生活に反発することはなかったのでしょうか。

「実はその逆でした。ぼくが17か18歳くらいのときに両親が離婚して、コミューンを出ることになったんですが、ぼくはそこに残ることにしました。コミューンのみんなからすごく愛されているという気持ちがあったし、彼らもかまわない、無料で居ていいといってくれたので。両親はぼくがそういう決断をしたことを悲しみましたが、ぼくとしてはコミューンを出るより、親から離れたいと思っていました。ぼくなりの親離れの兆候だったのかもしれません」

――ラースの最初の脚本よりも主人公の年齢を下げることによって、たとえば、大人になるという意味での通過儀礼的な要素が強調されるというような違いが出てきたと思うのですが。

「そう、大きく変わりました。自分の人生に失望し、自分を負け犬だと決め付けてしまった若者たちの物語です。人は大人になりかけたときに、自分の人生が見えてしまったような気持ちになる。大人の世界は自分が思い描いていたものとは違う。そこで、両親のようになりたくない、周りの大人のようになりたくないともがくわけです。その結果は様々で、空想の世界に入り込んでしまう人もいれば、より高いものを求めて努力する人もいれば、より豊かなものを求める人もいるでしょう。ロックバンドを結成する人もいれば、ドラッグに走る人もいる。もっと過激な場合には、マシンガンを持って高校に行き、人々を撃ってしまうわけです。これらはすべて自分の運命に対する悲しみのマニフェステーションだと思います。
この映画の若者たちは、幸いなことに集団を作ることによって喜びを見出す。いろいろな儀式を通して、絆も深め、不条理な行動に走りつつも自分のアイデンティティを確立していきます。ただ、とても悲しいことに最後に、自分たちが思い描くヒーローとして死に向かって歩むか、これまで自分たちが生きてきた灰色の世界に戻って、生きる屍のように普通の人生を歩むかの選択を迫られます。それは彼らにとって、すごく悲しい選択であり、現代の多くの若者たちが迫られる選択に近いと思います」


◆プロフィール◆
トマス・ヴィンターベア
1969年5月19日、デンマークのコペンハーゲン生まれ。89年にデンマーク国立映画学校に史上最年少で入学、93年の卒業制作“Sidste omgang(Last Round)”はミュンヘンの国際学生映画祭で審査員賞とプロデューサー賞、テル・アヴィヴ映画祭で第1位に輝いたほか、94年度の米アカデミー賞にノミネートされ、一躍注目される。また同年には、短編“Drengen der gik baglaens(The Boy Who Walked Backwards)”を監督、94年のクレルモン=フェラン国際短編映画歳で観客賞、95年のトロント短編映画祭で最優秀ドラマ賞、ノルディック・パノラマで短編賞と観客賞を受賞した。95年にはラース・フォン・トリアーとともに《ドグマ95》を結成、“純潔の誓い”を立てる。96年の長編デビュー作“De Storste helte(The Biggest Heroes)”はデンマーク・ロバート賞を受賞。97年には、ドグマにマニフェストによる第1作『セレブレーション』を監督、還暦を迎えた領主の祝宴のために集まった一族が織り成す愛憎に満ちた葛藤と真実を赤裸々に暴き出し、98年のカンヌ国際映画祭で審査員賞に輝いたのをはじめ、ヨーロピアン・フィルム・アワードのファスビンダー賞、ロサンジェルス映画批評家協会賞とニューヨーク映画批評家協会賞の外国語映画賞、デンマーク・ロバート賞では7部門、ボルディ賞では3部門受賞に輝くなど、高く評価された。00年には、ドグマの仲間たちとデンマーク・テレビ用の実験映画“D-Dag”を監督、03年には初の英語映画となる未来的寓話“It’s All About Love”をホアキン・フェニックスとクレア・デインズの主演で撮りあげた。また、ラース・フォン・トリアーによる脚本を映画化した本作『ディア・ウェンディ』(05)ではモスクワ国際映画祭監督賞に輝いている。
(『ディア・ウェンディ』プレスより引用)
 

 

 
 

――エレクトリック・パークを取り巻く建物は、西部劇の世界のようにも見えますし、ドラマにも西部劇とイメージがダブる場面があります。西部劇の要素については、どのように考えていますか。

「この映画をジャンル分けするのはとても難しいと思いますが、ぼくはモダン・ウエスタンと呼んだりもしていました。ぼくはペキンパーが大好きで、彼は素晴らしい映画を作りますが、おそらくとても意地悪で、他人には優しくない人物だろうと想像がつきます。この映画は、そのペキンパーの『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』やキューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』などを想起させるのではないかと思います。おっしゃるようにセットにも西部劇の匂いがありますね」

――アメリカに行くことができないラースは、たとえばカフカの『アメリカ』といった小説や映画、音楽などにインスパイアされて、彼の内なるアメリカを描き出します。あなたは、アメリカに行くこともできるわけですが、アメリカに対するあなたとラースの距離感や視点の違いをどのように考えていますか。

「素晴らしい芸術を作るにあたって、それを必ずしも体験する必要はありません。たとえば、癌で死ぬ人間を描くのに癌になる必要はない。『セレブレーション』ではブルジョアの家族や幼児虐待を描いてますが、ぼくは、ブルジョアの雰囲気もぜんぜん知らなければ、虐待もまったく受けずに育った。それでも、好奇心や憧れ、そして入念なリサーチによって描くことができます。ぼくもラースもデンマークで育ったわけですが、デンマークはアメリカのサバービアといっても過言ではない。ぼくたちは、コカコーラやバスケットボールなど、アメリカ文化を吸収しながら育った世代なのです。アメリカは西洋社会のフロンティアといってもいいでしょう。
 とはいうものの、ラースは実際にアメリカには行っていないので、いくつか誤解というものがあります。たとえば、このエレクトリック・パークといった広場の形式というのは、アメリカの都市にはほとんどない。駐車場のような空間ならありますが。あれはヨーロッパのものなんです。だからそれがわかってない。それから、アメリカ人は自分を皮肉の対象にして笑いをとるということをほとんどしない。それは彼らがたいへん誇り高いからです。ヨーロッパ人、特にイギリス人とかは、頻繁に皮肉を込めて自分や相手のことを話します。ですから、皮肉というのはとてもヨーロッパ的なものであって、アメリカ人はなかなか使いこなせない。それをラースはいまいちわかっていない。だから今回ぼくが大変だったのは、世界でいちばん横柄で気位の高い監督と誇りの高いアメリカ人たちの間で仲介役になることでした。そこからいろんな大きな問題が生じて、とても苦労しました」

――『セレブレーション』では、昼と夜、光と闇のコントラストが際立っていましたが、『ディア・ウェンディ』でも、光と闇が大きな役割を果たしています。ダンディーズは、独自のルールを作り、銃を使うのは廃坑の闇のなかに限定されています。あなたは、光と闇のふたつの世界をどのように認識していますか。

「ぼくは基本的に闇というのはすごく抑圧的なものだと思っていますが、この映画の若者たちにとっては、ファンタジーの世界、とても安全な場所です。そこにいれば、灰色の現実から逃れることができる。自分自身が支配者になり、完璧な団結と自由が約束されている。彼らは、自分たちだけが清く正しい平和主義者だと信じ、銃を太陽の光に晒してはならないと考える。他の人々は銃を見るに値しない。見れば悪いことに使ってしまうから。しかし彼らは最終的に銃を光に晒してしまう。闇から出て光を浴びる瞬間に、目覚めよといいますが、そこには意味深いシンボリズムが隠されていると思います」

――セバスチャンは、ディックの純粋さが生み出した闇の世界に現実を持ち込んだり、あるいは、ダンディーズを闇から現実の世界に引き出す役割を果たします。特に、セバスチャンが、孤立するディックに対して、外に出られないクララベルの話を持ち出したり、ディックの関心を保安官の銃に向けさせる場面では、ディックの心理を操っているところがあります。あなたは、このセバスチャンのキャラクターをどのように解釈していますか。

「これはラースの深層に潜む欲望だと思うのですが、彼は常に自分の作品に政治的に正しくないこと、賛否両論を呼ぶようなことをあえて盛り込もうとするのです。この脚本もそうです。具体的には、ディックとセバスチャンというまったく対照的なキャラクターのことです。ひとりは、ヨーロッパの白人独特の雰囲気を持ち、なんでも頭で考え、理詰めで物事を進めようとする。儀式にも頼って自分が凄い人間になったという気持ちになるタイプです。もうひとりは、自分を守るためには手を血で汚すこともいとわない実行するタイプです。女の話ばかりしていて手を出さない男ではなく、話などせずにすぐ手を出す男。実際に戦争があればすぐに参戦する。参戦せずに戦争論を語る男ではない。血と肉でできている人間ですね。
 今回ラースは、そういう人間をあえて黒人にしてしまった。だから賛否両論を呼ぶと思います。それは彼にとっては無邪気な憧れであったり、ジェラシーだと思います。彼はそういう実行力をともなった人間に憧れを持っていると思う。ヨーロッパ全体がそうかもしれない。もしディックをラースだとすれば、彼がいわんとすることははっきりすると思います。彼は理詰めでしか生きられない。旅行もできなければ、パーティにも行かない。自分の人生を楽しむこともないし、女性を誘うことなど絶対にないでしょう。あるいは、もっと広い視野でとらえるなら、ヨーロッパ対アメリカと解釈することもできるでしょう」


(upload:2009/07/15)
 
《関連リンク》
ドグマ95から広がるネットワーク ■
『セレブレーション』 レビュー ■
『ディア・ウェンディ』 レビュー ■
『光のほうへ』 レビュー ■
トマス・ヴィンターベア・インタビュー01 『セレブレーション』 ■
『光のほうへ』公式サイト ■
   
amazon.co.jpへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp