西部劇という幻想と現実の狭間で銃を抜く若者
――『ダウン・イン・ザ・バレー』と『ディア・ウェンディ』をめぐって


ダウン・イン・ザ・バレー/Down in the Valley― 2005年/アメリカ/カラー/112分/シネマスコープ/ドルビーデジタルDTS
ディア・ウェンディ/Dear Wendy―――――― 2005年/デンマーク=フランス=ドイツ=イギリス/カラー/105分/ヴィスタ/ドルビー
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(初出:「Cut」2005年12月号、映画の境界線52)

 

 

 ロサンゼルス郊外にあり、丘陵に囲まれたサンフェルナンド・バレーは、アメリカのサバービアのなかでも特異な地域だといえる。たとえば、バレー育ちのポール・トーマス・アンダーソンが監督し、70年代後半から80年代初頭にかけてのバレーを舞台にした『ブギーナイツ』からは、この地域ならではのドラマが浮かび上がってくる。高校を中退し、家族との絆も失われているエディは、ポルノ映画の監督にスカウトされ、立派なイチモツの力によってスターになっていく。

 サンフェルナンド・バレー(以下バレーと略す)は、戦後いち早く郊外化が進み、緑の芝生にスプリンクラー、専用プールにスーパーマーケットという豊かなサバーバン・ライフの先駆けとなった。しかしそれだけに荒廃が進むのも早く、80年代半ばには離婚率が最も高く、犯罪が横行する地域となっていた。

 一方でバレーは、山を隔ててHollywoodと隣りあうばかりでなく、Valleywoodと呼ばれるほどに、映画産業が栄えた地域でもあった。しかしやがてそうした基盤からポルノ産業が生まれ、いつしか世界のポルノ産業の中心地となっていた。『ブギーナイツ』のエディは、そんなふたつの流れが交差する場所で成功を収めたかに見えるが、自分がスターの幻想に溺れていたことを思い知らされ、擬似的な家族の絆に目覚めていくのだ。

 そして、アンダーソンと同じようにバレーで育ったデヴィッド・ジェイコブソンが監督した『ダウン・イン・ザ・バレー』からは、さらにディープなバレーならではのドラマが浮かび上がってくる。17歳の娘トーブは、厳しい刑務官の父親と自分の殻に閉じこもる13歳の弟ロニーとバレーに暮らし、窮屈で変化のない毎日にうんざりしている。ある日、そんな彼女の前に、テキサス訛りでカウボーイを自称する風変わりな男ハーレンが現れる。彼女は、何ものにも縛られることなく自分の道を行く彼に惹かれていく。さらにロニーも、父親と違って自分を一人前の人間として扱い、銃の撃ち方を教えてくれる彼に憧れるようになる。

 だが、そのカウボーイのイメージは、次第に揺らぎだす。ハーレンは知人の牧場に彼女を案内するが、牧場主は彼に見覚えがなく、勝手に馬を乗り回す彼を迷わず警察に突き出そうとする。ひとりで部屋にこもっているときの彼は、本物のカウボーイというよりは西部劇のヒーローを演じているように見える。実は彼もまたバレー育ちで、不毛な現実から幻想に逃避し、バランスを失いかけているのだ。そんな彼は、自分の思い通りにならないトーブを反射的に撃ってしまい、ロニーを騙して連れ出し、逃亡を開始する。

 このドラマは、『ブギーナイツ』とはまた違った意味で、バレーの歴史と深い結びつきを持っている。かつてバレーには、牧場や農場が広がっていた。そこに20世紀初頭から次第に映画産業が進出を始め、Valleywoodが形成される。その初期の時代には、本物のカウボーイや牧場の労働者がたくさんいて、エキストラとして働くこともあったという。また、この地域には西部を描くのに格好のロケーションがあり、最盛期には、カウボーイものの映画の9割がここで撮影されていたという証言もある。そうしたロケ現場は、フリーウェイが建造されることによって役割を終え、今度はサバービアが広がっていく。そして、トッド・ヘインズ『SAFE』に描かれるように、今では丘陵地帯に高級住宅地が建造されていく。

 逃亡するハーレンとそれを追う父親のドラマは、そんな歴史を踏まえてみると、興味深く思えてくることだろう。彼らを取り巻く世界は、本物の西部、西部劇、サバービアをめぐって、そのリアリティが変化していく。最初に、闇に包まれた丘陵で、ハーレンがロニーに肝試しを行う場面は、西部を生きるための儀式のようにも見える。その翌日、忍び込んだ空き家で目覚めた彼らの前に出現するのは、現代に甦ったかのような西部劇の世界だ。しかし、逃亡者が放つ実弾はその幻想を撃ち砕いていく。そして、最後の決闘の場となる丘の上は、建築中の高級住宅に占領されている。彼らを取り巻く世界のそんな変化は、ユーモアや風刺のレベルを越えて現実を異化し、ハーレンと父親を奇妙な宙吊り状態に追いやるのだ。


―ダウン・イン・ザ・バレー―

※スタッフ、キャストは
『ダウン・イン・ザ・バレー』レビューを参照のこと


―ディア・ウェンディ―

◆スタッフ◆

監督   トマス・ヴィンターベア
Thomas Vinterberg
脚本 ラース・フォン・トリアー
Lars von Trier
撮影 アンソニー・ドッド・マントル
Anthony Dod Mantle
編集 ミケル・E・G・ニールセン
Mikkel E. G. Nielsen
主題歌 ベンジャミン・ウォルフィッシュ
Benjamin Wallfisch

◆キャスト◆

ディック   ジェイミー・ベル
Jamie Bell
クラグスビー ビル・プルマン
Bill Pullman
フレディ マイケル・アンガラノ
Michael Angarano
ヒューイ クリス・オーウェン
Chris Owen
スーザン アリソン・ピル
Alison Pill
スティーヴィー マーク・ウェバー
Mark Webber
セバスチャン ダンソ・ゴードン
Danso Gordon
クララベル ノヴェラ・ネルソン
Novella Nelson
(配給:ワイズポリシー)
 
 


 一方、“ドグマ95”の中核を担ったラース・フォン・トリアーが脚本を書き、トマス・ヴィンターベアが監督した『ディア・ウェンディ』もまた、現代と西部劇を結びつけることによって、アメリカを異化しようとする作品だ。主人公のディックと彼の仲間たちの絆や心理には、ハーレンやロニーに通じるものがある。炭鉱で働かなければ男ではないような不文律がある南部の町で、負け犬として生きるディックは、後にウェンディと名づける銃と出会い、彼女と一体になることで一人前の男になる。彼は、他の負け犬たちを集め、銃で結ばれた平和主義者の集団“ダンディーズ”を結成する。

 ヴィンターベアのドグマ作品『セレブレーション』で、集団のなかに蠢く感情を際立たせていたのは、光と闇のコントラストだったが、この映画でも光と闇が重要な意味を持っている。“ダンディーズ”の世界は、廃坑の闇のなかにあり、彼らが銃を外部に持ち出すことがあっても、それは夜に限られる。日の光によって銃を目覚めさせないことが彼らの掟であり、闇の世界では、銃と平和主義は矛盾しない。彼らは、現実を拒み、個々の銃が背負う歴史に価値を見出し、レトロなファッションを身にまとい、ダンディーであることを追求し、西部劇の主人公のように幻想を生きるようになる。

 しかし、ディックの幼なじみで、殺人を犯して保護観察処分となったセバスチャンが出入りするようになると、彼らの幻想は揺らいでいく。厳しい現実を生き延びてきた黒人の彼にとって、銃は常に現実であり、手にとればそれは確実に目覚める。そんな彼は、“ダンディーズ”の幻想の正体を見極めようとするかのように、彼らを現実のなかに引き出す。そして、現実と幻想の狭間で、激しい銃撃戦が繰り広げられることになるのだ。

《参照/引用文献》
“The San Fernando Valley: America’s Suburb”by Kevin Roderick●
(Los Angels Times Book, 2001)

(upload:2007/07/14)
 
 
《関連リンク》
ドグマ95から広がるネットワーク――ラース・フォン・トリアーの新たな試み ■
『セレブレーション』 レビュー ■
『光のほうへ』レビュー ■
トマス・ヴィンターベア・インタビュー01 『セレブレーション』 ■
トマス・ヴィンターベア・インタビュー02 『ディア・ウェンディ』 ■

 
 
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