この新作は、そんなエルロイと殺された母親の関係にまつわる真実の物語であり、タブロイドと現実をめぐっていろいろな意味で読み応えのある内容になっている。
たとえばそれは、エルロイが小説を書くに至るまでの背景である。彼が10歳のとき、両親はすでに離婚し、彼は母親と暮らしていた。そして58年に事件が起きたとき、彼は母親の死を悲しむどころか、いまの生活から抜け出せることを密かに喜んでさえいた。
彼は母親を憎み、彼らが暮らしていたロス郊外の町を嫌悪していた。そこは、ホワイト・トラッシュや離婚した女たちの吹きだまりのような荒んだ世界だった。彼は母親に騙されてそんな世界に連れてこられたことを呪っていた。当時の彼は、父親の言葉をすべて鵜呑みにし、母親が飲んだくれの売女だと信じ、喜んで父親のスパイの役を演じていた。
しかし憎しみの影で、彼は母親に女に対する激しい欲望を感じてもいた。
母親亡き後、セックスと暴力に対する彼の欲求はいっそう激しいものとなり、父親もそれを助長した。父親はそんな息子にミッキー・スピレインの小説を勧め、11歳の誕生日にはロス市警の警官が書いた事件簿を贈った。エルロイ少年はその事件簿のなかに凄惨なブラック・ダリア事件を見出し、それを何度も読み返しながらダリアを母親と重ね、
ダリアの危機を救って彼女の恋人になる妄想にとりつかれ、「タブロイド的な感性に磨きをかけていく」のだ。
その後の彼は、覗きや下着泥棒、窃盗、ネオナチ、アル中にヤク中という混沌とした生活に引き込まれ、やがて暗く激しい情念が小説として吹き出すことになる。彼の出世作である「秘密捜査」や「ブラック・ダリア」は、ダリアと母親に対する欲望と憎しみに駆り立てられて書かれたものなのだ。
しかしこの本からはもっと凄まじいタブロイド・イメージが浮かび上がってくる。マスコミがO・J・シンプソン事件一色に染まっている94年の春、エルロイは退職した刑事に協力を求め母親の事件の再捜査を開始する。そしてこの捜査の話題が「LAウィークリー」に載ると、仮事務所に電話が殺到することになる。一日目には42本の連絡があり、
うち2人が霊能者を名乗り、映画化のオファーがあり、ある女性は自分の父親が犯人だと告げ、4人がOJが犯人だと主張した。その翌日は29本の連絡があり、うち霊能者が4人、OJ犯行説が2人、激励が9人、父親が犯人だという女性が3人、誘惑目的の女性が1人、彼の小説の人種、ホモ差別を批判したのが1人だった。
その後も、霊能者、激励、OJ説、無言の電話は後をたたず、父親に虐待されている記憶抑圧症候群の女性たちや自分の父親がダリアとエルロイの母親を殺したという女性から繰り返し連絡がくるようになる。「サタニズムと回復記憶療法」や「ブラック・ダリアと虚偽記憶シンドローム」を読まれた方は、こうしたエピソードがいっそう生々しく感じられることだろう。
自分の母親の死をめぐるこのタブロイド的な衝動の嵐に、並みの人間なら消耗しきるところだが、エルロイは、それをものともせず、さらに人々のなかに巣くうタブロイドの情念をあぶりだそうとする。彼は、事件を再現するテレビ・ドラマへの出演依頼を平然と承諾し、火に油を注ぎ、アメリカ中の反応を冷徹に綴っていくのである。
本書で最も印象的なのは、そうしたタブロイドの渦の向こう側に見えてくるものであり、それは先述したバトラーの短編集の構成にも通じているのだが、もう一冊の本ではそれが最もわかりやすいかたちで提示されている。
その本とはダグラス・クープランドの『Polaroids from the Dead』だ。本書は、クープランドが様々な雑誌に発表した原稿をまとめたもので、グレイトフル・デッドのコンサートを追う新旧のヒッピー、変貌する旧東ベルリン、ポップ・カルチャー、ハロルドと呼ばれるお墓のオタク、地元のライオン・ゲート・ブリッジの思い出などを題材として、
写真、現実と虚構を織り交ぜながら90年代初頭という時代を浮き彫りにしていく。基本的には、これまでのX世代〜デジタル・カルチャーの延長にある作品だが、それを突き詰めたところにタブロイド的なものが見えてくるのだ。
クープランドは、人間と他の動物の違いは、人間が物語を必要としていることだという。ところが、第二次大戦後に始まる郊外化、均質化されたそのライフ・スタイル、高度情報化社会のなかで、物語の基盤となっていた宗教、家族の絆、イデオロギー、階級意識、政治や歴史認識などが消失し、中流の人々は空虚な世界を生きているという。
そんな文脈を通して最後に彼がたどり着くのは、夢と空虚を象徴するロス郊外の高級住宅地ブレントウッドの世界であり、そこで起こったモンローの死とO・J・シンプソン事件なのだ。物語が失われた空虚な世界のなかに浮かぶモンロー神話やシンプソン事件、それは限りなくタブロイドに近い感触を持っている。
タブロイドとは、物語を失った人々が自分を世界に繋ぎ止めるために無意識のうちに手繰り寄せるものといってもいいだろう。
それではここでバトラーの短編集に話を戻そう。タイタニックの惨事を文化史的な視点で読み解くスティーヴ・ビールの『Down with the Old Canoe』によれば、タイタニック号に対する関心がアメリカで急激に高まるのは戦後の50年代のことであり、その後現代に至るまで根強い人気を維持しているという。本書にはこの人気について、
地位や階層の隔たりもなく一等船客から三等船客までが海に没する惨事は、戦後の均質化したサバービアのメタファーになっているという分析なども紹介されている。
確かにそんな分析にも一理ありそうだが、筆者は、タイタニックをあくまでタブロイドとして何かを語りきろうとするバトラーのこの二編に不思議な説得力を感じる。タイタニック号のデッキと救命ボートのなかから、すでに見えなくなった相手の姿を探し求め、生死を越えて、それぞれに何を失ったのかを自問し続ける男女の姿は、物語が失われた現代を象徴しているように思えるということだ。
エルロイの物語にも同じことが言える。40年代末のブラック・ダリア事件、50年代末の母親の事件から現代に至る流れは、物語が失われたタブロイドの歴史そのものであり、彼はその旅の果てにタブロイドの彼方に母親の真実の姿を垣間見て、初めて彼女を殺した犯人に対して憎しみを覚えるのである。
三人の作家たちは、それぞれの感性とスタイルで、物語を失った人々がタブロイド的な世界に引き込まれていく現代という時代を浮き彫りにしているのである。 |