たとえば、これまで社会の屑だったアメレジアンたちは、皮肉なことにODPによって突然パラダイスへの切符に早変わりする。そこで、彼らを利用して出国しようとする人々が家族を偽装してODPの面接に押し寄せ、担当者たちは、偽装家族を認めるくらいなら本物を拒否したほうがましだという判断に傾いていく。一説によれば、面接にくる家族の9割が偽装で、
場合によっては本人が偽装ということもあるという。髪を染めたり、顔を整形してアメレジアンを装うのだ。しかしこの整形手術は失敗も多く、顔を台無しにした子供もいるという。また、著者が出会ったある娘は、夫が出国したいだけで自分と結婚したのはわかっているが、自分を家畜以下とみなす家族から逃れるためには仕方のない選択だったというように語っている。
一方、アメリカにやってきたアメレジアンたちは、複雑なアイデンティティの危機にさらされることになる。ほとんどの父親は自分の子供たちに会おうとはしない。彼らは、母の国で疎外され父の国にやってきても歓迎されない。言葉もわからず習慣にも溶け込むことができない。そこで、自殺に走ったり、故意に自分の身体を傷つけたり、あるいは、
父親が黒人であるために差別にあった若者などが父親はハワイ人だとかインディアンだと勝手に物語を作るというように、本当のことを話さなくなる若者が少なくないという。
そして、そんなアメレジアンのなかで著者が特に関心と愛情を注いでいるのが、チャーリーという人物だ。彼の物語は一冊の本になりそうなくらいの冒険に満ちている。彼は59年にゴ・ジン・ジェム政権の顧問だったアメリカ人の父親とヴェトナム人の母親の間に生まれたがすぐに孤児院に送られた。6歳で孤児院を逃げだした彼は、米軍キャンプを渡り歩き、
戦後は投獄と脱走を繰り返し、ジャングルやホーチミン市を彷徨っていた。そして89年にODPにパスした時、突然官憲に連行され、スパイになることを条件に出国を許されたというのだ。
そんな彼は、最初に著者と出会ったときには元気一杯だったが、同じアメレジアンのフィアンセと仲違いしたことから夢が崩れだす。それとともに彼は、FBIに付きまとわれ二週間も尋問されたと言いだすようになる。間もなく彼は新天地を求めてハワイに旅立つのだが、しばらくして著者に手紙で、雇い主に騙され、しかも事故にあって顔に重傷を負い、
これからどうなるかわからないと伝えてくる。ところが、著者以外の彼の仲間には、楽園で快適に生活しているという手紙が届いていたというのだ。著者は本書のなかで、ここに取り上げた物語の多くは嘘であるかもしれないが、その背後にある痛みは本物だと書いているのだが、このチャーリーの姿はそれをよく物語っているといえる。
そしてもうひとつ、本書でとても印象に残るのが、チャック・ノリス扮するブラドック大佐がヴェトナムに向かい、アメレジアンの息子と母親を救出する映画「地獄のヒーロー3」に関する記述である。著者は、この映画を含めて、アメレジアンを描くアメリカ映画は、アメレジアン=米軍捕虜という図式をベースにしているという。 しかし、アメレジアン救出には、捕虜救出ほどのカタルシスがない。それゆえ、”地獄のヒーロー” シリーズでは、前2作で捕虜救出という物語がマンネリ化したあとで、今度は父親たちの代役を息子たちがつとめているというのだ。
そんな娯楽映画に皮肉を言っても仕方がないと思うかもしれないが、マルカム・マコネルの『Inside Hanoi's Secret Archives』を読むと、この意見が意味深いものに思えてくる。ヴェトナム戦争終結後、長い間両国の関係改善のネックになっていたのは、POW(捕虜)/MIA(行方不明兵士)の問題である。アメリカは、
和平協定調印にあたって捕虜全員の釈放を要求したが、捕虜の人数や行方不明兵士の消息など満足な回答が得られなかった。
そこには、この問題を戦後の復興援助の切り札にしようとするヴェトナムとアメリカの駆け引きがあったが、ウォーターゲート事件で大揺れに揺れていたニクソン政権は妥協を余儀なくされた。その結果、
戦後のアメリカでは政府が捕虜を見捨てたのではないかという疑惑とヴェトナム政府に対する反感がくすぶりつづけることになった。本書は、この問題に一応の決着がつき、経済制裁が解除されるまでの顛末を克明に綴るノンフィクションなのだが、その内容は、スパイ小説顔負けの物語になっている。
88年夏、相変わらずヴェトナム政府が捕虜と行方不明兵士に関する秘密文書の存在を否定し続けている状況のもとで、ヴェトナムにパイプを持つ元国連職員テッド・シュヴァイツァーは、ヴェトナム政府高官からハノイの軍事博物館に案内される。そこで彼は、秘密文書の閲覧を許され、それを資料とした本を書く契約を持ちだされ承諾する。
その膨大な記録をチェックするにはかなりの月日を要したが、やがてこの本の企画に出版社ではなくアメリカ政府が強い興味を示すようになる。再選を睨むブッシュ陣営がこの問題の解決の糸口になると踏んだからだ。そこでシュヴァイツァーはスパイとなることを余儀なくされ、精度の高い最新のスキャナーで文書を次々と複写し、アメリカに持ちかえる。
このスパイの立場は、結局は両国のスポークスマンのような立場に変質し、問題の解決へと向かうのだが、本書ではそんな間接的な解決を狙ったヴェトナムとアメリカの水面下の攻防が浮き彫りにされるのだ。
その物語はとてもスリリングではあるが、アメレジアンの問題を考えると何とも複雑な気持ちになる。これがもっと速やかに解決していれば、アメレジアンたちには違った物語が準備されていたかもしれないからだ。そしてふと考え込んでしまうのは、
捕虜の問題ゆえにスパイになることを余儀なくされたシュヴァイツァーとアメレジアンの問題ゆえにスパイの妄想にとらわれてしまったチャーリーのことである。このあまりにも皮肉な対照は、戦後のヴェトナムとアメリカの複雑な関係を象徴しているようにも思えてくるのだ。 |