昨年は北京五輪をめぐって暴動や抗議運動が起こり、チベット問題が大きな注目を集めた。そしてダライ・ラマ14世がインドに亡命するきっかけとなったチベット動乱50周年を迎えた今年、チベットの現実に迫る2本の映画が公開される。
1本は、実話をもとにチベットの首都ラサやネパールで監視の目をかいくぐって撮影されたポール・ワーグナー監督の劇映画『風の馬』(98)。90年代後半には、チベットを舞台にした大作『セブン・イヤーズ・イン・チベット』と『クンドゥン』が相次いで公開され、チベット問題に対する関心が高まったが、同時期に製作されたこの映画には、その2作品を補完するような視点がある。
ダライ・ラマ14世の若き日を描く『セブン・イヤーズ〜』や『クンドゥン』からは、平和を尊ぶ宗教と共産主義の対立の図式が浮かび上がる。しかし、宗教だけで国家を守ることはできない。歴史を遡れば、チベットはイギリスや清朝という外部からの脅威にさらされ、一時的にインドへの亡命も余儀なくされたダライ・ラマ13世は、チベット軍の近代化を目指していた。彼は1932年に以下のような遺言を記してもいる。
「ここチベットの中心で、この国の宗教が、この国の政治が、内から外から脅威にさらされるであろう。我らが、我ら自身の手によって、この国を守らんと決意せよ。さもなくば、父とその息子、すなわちダライ・ラマとパンチェン・ラマ、さらには信仰心篤く尊敬をかちえた者たち、すなわちこの国の宗教を支える高僧、皆たちどころに消え失せ、名もなき者と化すであろう。僧侶は命を奪われ、僧院はことごとく破壊されるであろう(後略)」(ジョン・F・アベドン『雪の国からの亡命』)
しかし、中国が内戦に陥ると、警告は忘れ去られ、チベットは世界に背を向け、平和を享受する。ダライ・ラマ14世は、そんな時期に幼年期を過ごし、そして中華人民共和国の成立とともに侵攻が始まる。ダライ・ラマ14世は当時を以下のように回想している。
「一般に、私たちチベット人はたいそう信心深く、すぐれた修行者も数多く存在する。しかし、人間の努力もなしで、ただ祈ることによって一国が救われると思い込んだりしたのも、限られた知識しか持っていなかったためだ。この観点から言えば、宗教感情は実際のところ障害となる」(前掲同書)
1998年のラサを舞台にした『風の馬』に登場する兄妹の立場や生き方には、チベットの状況が反映されている。同化政策に反発する兄は、仕事もなく、無為な日々を送っている。歌手を目指す妹は、ナイトクラブで中国語で歌い、共産党幹部に目をかけられている中国人青年と交際し、レコードデビューを果たそうとしている。しかし、出家した従妹の悲劇がふたりを変える。彼女は路上で「フリー・チベット!」と叫び、投獄され、激しい拷問を受け、瀕死の状態で釈放されたのだ。
チベットの人々の意識や姿勢は、弾圧のなかで変化してきているように思える。たとえば、尼僧の立場だ。「1980年以前は僧侶から性差別を受け、見下げられていた。僧侶に比べればずっと数が少なく、僧侶階級の背後に追いやられ、一段劣った教育で満足しなければならなかった。中には生活のためにやむをえず物乞いをしたり、金持ちの召し使いにならざるをえない者もあった。(中略)1980年代の初めから状況は変わった。多くの尼僧たちは抵抗活動に参加し、時として男以上の勇気を示し人々から尊敬された」(フィリップ・ブルサール、ダニエル・ラン『囚われのチベットの少女』)
そしてもう1本の作品、楽真琴監督のドキュメンタリー『雪の下の炎』(08)では、33年間の投獄と拷問に耐え抜いたチベット僧パルデン・ギャツォの苦悩の半生と不屈の精神が描き出される。彼が厳しい弾圧の時代を乗り越え、慈悲の心と非暴力の姿勢で闘いつづけることには大きな意味がある。「北京の指導者は、前任者の「誤り」がいかにチベットのナショナリズムを強化したか、文化大革命の間の残虐行為が、それまでまとまりのなかったチベット人をいかに一つに統一したかを理解していなかった」(前掲同書) |